ふるさと厚狭

四境戦争に対応した長州藩の軍制改革と厚狭①

9月20日のこのブログで、第二次長州征伐(四境戦争)に向け元治2年=慶応元年(1865)長州藩内で「防長御一和・武備恭順」の藩論統一が成ったことを書いた。 同年4月19日幕府は第二次長州征伐の軍令を発し諸藩へ軍事動員を行った。しかし実際に幕府軍…

長州藩の危機・内戦処理に於ける支藩の動き

長州・萩藩公称37万石には長府藩5万石、徳山藩4万石、清末藩1万石、の支藩と別家として岩国を領する吉川家6万石、の4家があった。 (支藩は本藩が幕府に願い出て承認されて成立するが、岩国吉川家は関ヶ原敗戦の遺恨から萩藩が幕府への願いをしないま…

長登(ながのぼり)銅山跡と奈良の大仏

最近このブログでは、長い間追跡している厚狭毛利家が長州藩の内戦いわゆる大田・絵堂の戦いで負け組になった処まで書いてきた。 ちょうどこのとき、山口県在住の同級生から美祢市美東町にある大田・絵堂戦跡に行ってきたとの便りがあり同じ美東町にある長登…

厚狭毛利家代官所日記㊶元治元年(1864)嗣子の誕生

今まで書いてきたようにこの頃長州藩の内戦で厚狭毛利家当主が俗論派の旗頭になったが、内戦は敵対した正義派諸隊の勝利で終わり、厚狭毛利家は逼塞(ひっそく)に追い込まれた。 この厳しい状況下、厚狭毛利家に世継ぎが誕生する。 元治元年12月27日の記…

長州藩士・長井雅楽(ながいうた)/中秋の名月

幕末維新の激動のなかで滅亡の縁にも立たされた長州藩には非業の死を遂げた有為な士が多く出た。あまり世間には知られていないが、藩士の中核である大組(おおくみ)士の出自であった長井雅楽もその一人で、その才を多くから嘱望されながら政治的な立ち位置か…

稲刈りについてのあれこれ

山口県に住む同級生から「グループLINE」で稲刈り作業が始まっていることとの連絡があり、米の味、田んぼで遊んだこと、等々色々な懐かしい話が同級生間で飛び交った。 もう稲刈りの季節かとその早い時期には驚くが早生(わせ)種ではないらしい。早く実って早…

厚狭毛利家代官所日記㊵元治2年(1865)長州藩内戦終結と厚狭

高杉晋作の挙兵で始まった長州藩の俗論派政府と諸隊中心の正義派との衝突は激戦地の名前をとって一般に「大田・絵堂(おおたえどう)」の戦いと言われる。 (大田・絵堂は私のふるさと厚狭の北東、現在の美祢市の一部で、当時の政治の中心・山口と萩の中間点に…

長州の攘夷とは

ふるさと山口県厚狭を給領地とした厚狭毛利家の代官所日記を読み込んだり、長州・萩藩の明治維新前後の歴史を調べていくと、当時の長州人や長州藩のたどった行動で最も不可解と感じられることが「攘夷」という言葉にあるように思われる。中国の中華思想は外…

厚狭毛利家代官所日記㊴元治元年(1864)④農兵の実態

8月11日のこのブログで、長州藩内は元治元年12月16日の高杉晋作の下関挙兵から正義派と俗論派との内戦に突入し、厚狭毛利家当主・能登が俗論派として諸隊追討総奉行兼先鋒隊総奉行を拝命、高齢のこともあって養嗣子・宣次郎が引き継いだこと迄を書い…

ふるさと厚狭周辺の神功皇后(じんぐうこうごう)伝説

8月27日のこのブログの続き4世紀半ばとされる仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)・神功皇后が朝鮮半島に出陣してその地を服属させたとの「日本書紀」の記述は、西日本各地に関連した伝説として拡がっている。例えば娘の住む岡山県倉敷には二万(にま)とい…

「日本はこうしてつくられた」と神功皇后(じんぐうこうごう)伝説

作家・安部龍太郎さんの「日本はこうしてつくられた・大和を都に選んだ古代王権の謎」小学舘 刊 を読んでいる。 著者は中世や戦国時代の作品が多かったが、現在日経新聞に連載中の「ふりさけ見れば」など古代にその興味や軸足がが移ってきているらしい。紀伊…

厚狭毛利家代官所日記㊳元治元年(1864)③播州竜野藩とのつながり

元治元年の長州藩と云えば、これまで書いてきたように内にあっては「禁門の変」で京から敗走して「朝敵」になり第一次長州征伐で幕府の大軍を迎え、外にあっては4ヵ国連合艦隊の下関砲撃を受け、内憂外患滅亡の縁に立たされた年である。これを受けこれまで…

厚狭毛利家代官所日記㊲元治元年(1864)②当主の諸隊追討総奉行就任

厚狭毛利家当主・毛利能登は8月7日のブログの通り元治元年9月長州藩俗論派政府の家老職に就いたが、折から第一次長州征伐で幕府軍が国境(くにざかい)に迫っており、能登は岩国分家の当主・吉川監物(きっかわけんもつ)等と協力して幕府側と折衝に当たるな…

厚狭毛利家代官所日記㊱元治元年(1864)①当主の加判役就任

〔厚狭毛利家代官所日記は残念ながら文久3年(1863)10月から元治元年(1864)8月までが欠落している〕長州藩では幕末この当時を表す「元治の大局(げんじのたいきょく)」という言葉があり、この頃時勢は大きく転回を始める。・元治元年6月5日 京で…

中国者(ちゅうごくもの)の律儀(りちぎ)

「中国者の律儀」という言葉がある。 この場合の中国者というのはもちろん、大陸の中国を指すのではなく山陰、山陽の中国地方ということである。 また律儀とは義理かたく実直なことをいう。この言葉の最初は中国地方の太守・毛利氏を表す事から発し、信長の…

同郷の詩人・中原中也 のことなど

NHKTVの朝ドラ「ちむどんどん」では主人公暢子と恋人・和彦が紆余曲折を経て結婚へ向けて動き始めたが、最大の障害になっているのが鈴木保奈美さんが演じる和彦の母親で、恐そうな顔で中原中也の詩集を持って現れた。和彦と母親が共に中原中也の詩を読んでお…

厚狭毛利家代官所日記㉟文久3年(1863)⑤強制献金

文久3年5月~6月に掛けて長州藩は下関で外国船を砲撃、厚狭毛利家当主や嗣子が総奉行として陣頭に立ち、ふるさと厚狭からは家臣や人夫が動員され、武器や食料、物品などの補給も行われたことが、代官所日記に記録されている。当時の武家は年貢米の値段に…

厚狭毛利家代官所日記㊱文久3年(1863)④男子健常者の調査

文久3年は幕末長州藩の転回点とも云える年で下関攘夷戦争を経て翌年の禁門の変、第一次長州征伐、長州藩内訌戦争へと続くことになる。この為危機感が徐々に高まり庶民も含めた総動員体制に向け動員可能人数把握のための調査が始まっている。代官所日記の関…

厚狭毛利家代官所日記㉞文久3年(1863)⑤農兵

文久3年5月10日長州藩では下関で外国船を砲撃、厚狭毛利家当主や嗣子がその陣頭に立った。 その前後から代官所日記には「農兵」に関する記述が増えてくる。その一部を抜粋して現代文に直す。4月14日 農兵、一存内(ひとつの庄屋管轄内)に10人当て稽…

「日本百低山」と萩往還(はぎおうかん)

NHKTVの番組に「日本百名山」をもじった「日本百低山」という番組があり、酒場詩人を自称し「酒場放浪記」で有名な吉田類さんがゲストと共に全国の比較的低い山を登る番組で、私は高い山には縁がないが低い山には何度か登ってその爽快感を味わったことがある…

岸信介(きしのぶすけ)氏の書「任 重 而 道 遠」

安倍元首相の悲しい出来事は衝撃であったが、海外からの反響はその評価の高さを再認識させられる。 この事もあり山口県の同級生グループLINEで祖父に当たる岸信介元首相の揮毫(きごう)された書が紹介されていた。「任 重 而 道 遠」と書かれている。「任 重…

「鯨獲りの海」

最近好物の鯨赤身の刺身を食べていない。尾ビレの部分オバイケは酢味噌で食べたが、やはり鯨は赤身のところを酢と醤油で刺身を食べるのが一番のような気がする。家内がスーパーに買い物に行くおり時々運転手に駆り出され、待ち時間に鯨がないか売り場をのぞ…

厚狭毛利家代官所日記㉝文久3年(1863)④

6月23日のブログの続き、朝廷と幕府が決定した攘夷(じょうい・異国船打ち払い)実行期日5月10日、赤間関海防総奉行を拝命していた厚狭毛利家当主・毛利元美(もとよし)は当日異国船への砲撃を躊躇(ちゅうちょ)した事を咎められ謹慎処分を受け、総奉行は…

武将・今川貞世とふるさと厚狭②

7月6日のブログの続き室町幕府3代将軍・足利義満から九州探題の命を受けた今川貞世は応安4年(1371)2月京を発ち、山陽道をゆっくり下り各地の有力者の協力を取り付ける。 周防国(すおうのくに・山口県東部)では防府で大内弘世(おおうちひろよ)と九州…

武将・今川貞世(いまがわさだよ)とふるさと厚狭①

図書館で呉座勇一(ござゆういち)著「戦争の日本中世史」新潮選書 を借り出してようやく読み終わった。 一般に中世とは武家が台頭する平安時代末期、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱に始まり室町時代、戦国大名の登場までを云う場合が多い。 この間には源平…

播磨の豪族・赤松氏と子供の頃の記憶

6月28日のこのブログに、新たに住むことになった兵庫県・播磨国にちなんで人物列伝「播磨百人伝」のことを書いたが、この本に載っている人物のなかで鎌倉時代後期から室町時代にかけて日本史に名を遺す赤松氏のことを書いておきたい。①赤松則村(のりむら)…

久しぶりの関西地区中学同窓会

昨日は大阪北新地で郷里の山口県厚狭中学校関西地域の同窓会で9人が集まった。 昨年12月以来の集合で半年ぶりだが、大阪、兵庫県、三重県から集まり近況や想い出の話が飛び交った。参加予定の一人が体調を崩して来られなくなったり、今まで参加されていた…

「街道をゆく・長州路」④最終回・忍びぬまま

吉田松陰が主宰した松下村塾の塾生で、松陰自ら4人の俊秀として挙げたのが、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一である。 彼らは全て明治維新を見ることなく死ぬことになり「革命では第一級の人物が非業の死を迎え二級の人物がその果実(権力)を得る」…

「街道をゆく・長州路」③奇兵隊

6月24日の続き長州人に関わる司馬遼太郎さんの「長州路」の記述を抜粋していく。司馬さんが山口・湯田温泉を訪ねた時の話。『長州は奇兵隊の国である。「何か民謡をやってくれませんか」とTさんが芸妓(ネエサマ)にたのんだ。ーーー 出たのは「男なら」と…

「街道をゆく・長州路」③怜悧(れいり)とは

6月19日のブログの続き、長州人に関わる司馬遼太郎さんの「長州路」の記述を抜粋する。【幕末になると水戸(藩)あたりでは、「長州人は怜悧という評判があり、うかつに手を結べない。結べばかんじんなところで体(たい)をかわされるおそれがある」という観…