ふるさと厚狭

頑張れ!美祢(みね)線

コロナ禍で旅客を運ぶ航空、鉄道各社が苦境に有る。 日経新聞の記事ではJR西日本も例外でなく、常態化していた地方の赤字路線を近畿圏の在来線や新幹線で支える構図が崩れ、バス路線への転換など見直しが必至の状況にある。1km当たりの1日平均利用者数が2…

厚狭毛利家代官所日記㉘文久2年⑩石炭採掘のトラブル

ふるさと厚狭を含む山口県の西部一帯は炭鉱が多くあった地域で、藩政時代からの石炭と厚狭との関わりについては、このブログに2020年8月26日、8月30日、9月3日の3回、「ふるさと厚狭の石炭」と題して書いてきた。石炭など鉱業の開発には公害騒…

山口県の歌あれこれ

①実家の兄と電話で話をしていたところ、最近山口県のローカルTV局で放送されている山口県の歌「みんなのふるさと」を一度YouTubeで聴くようにと紹介された。何でも作曲者が兄の知り合いで同郷の旧厚狭郡山陽町(現山陽小野田市)出身の田村洋さんとのことで、…

厚狭毛利家代官所日記㉗文久2年⑨激動の前触れ

隣国の眠れる獅子・清が英国に完敗したアヘン戦争(1840~42)は我が国の海防意識を一挙に高めたが、3面を海に囲まれた長州藩でも例外ではなく大調練(軍事演習)を行う等海防体制に注力していく。厚狭毛利家は要衝・下関に給領地が近いため、早くから下…

「乳のごとき故郷」

今年1月30日このブログに『映画「蝉しぐれ」と作家・藤沢周平』と題して藤沢周平さんのことを書かせてもらったが後日近所の図書館にいくと、たまたま同じ藤沢さんのエッセイ集「乳のごとき故郷」と出会い借りだして読み終えた。 以前にも触れたが藤沢さん…

厚狭毛利家代官所日記㉖文久2年⑧無宿人の悲哀

江戸時代の戸籍は、キリシタン禁制目的も兼ねて寺毎に檀家、壇徒(門徒)の名簿を作り宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)と呼ばれるものが用いられた。通常出生から死亡までこの人別改帳に載ることになるが、 飢饉(ききん)や親からの勘当等で故郷…

日常(日乗)・今年のバレンタインなど

神戸市垂水(たるみ)に用事がありこちらは夫婦2人で電車で西へ、娘は車で倉敷から東へ来て合流した。 用事を済ませ娘の車で大阪まで帰って来た。帰途、須磨浦(すまうら)の辺りを通る事になるが、標識で須磨を見た途端に母親が好きだった唱歌「青葉の笛」が耳…

ふるさと厚狭・鴨庄(かものしょう)②

◎本題前に、昨日のアイスホッケー・スマイルジャパンのチェコ戦、ハラハラドキドキながら勝ち切り予選1位通過、素直に嬉しい!2月5日のこのブログの続き私のふるさと・厚狭鴨庄について下鴨神社資料館館長の方からご教示頂いた内容の整理要約は以下の通り…

ふるさと厚狭・鴨庄(かものしょう)①

私は山口県厚狭郡山陽町(現在山陽小野田市)厚狭鴨庄に生まれた。現在は住宅が結構建って来ているが子供の頃は稲作中心の典型的な田園地帯であった。 厚狭の象徴・物見山から北西方向に現在の鴨庄一帯を見る 鴨庄は言い伝えでは京都の賀茂(鴨)神社の荘園(しょ…

厚狭毛利家代官所日記㉕ 文久2年⑦開作の犠牲者

〈1月31日のこのブログまえがきの続き〉厚狭毛利家家臣・長尾増平の事が、厚狭毛利家給領地の民政を記録した代官所日記に表れるのは文久2年(1862)3月28日の記録からで、その部分を現代文に直す。 (家臣の石高等を記す分限帳(ぶげんちょう)を調べ…

厚狭毛利家代官所日記のまえがき・開作(かいさく)

厚狭毛利家領内の民政を記録した代官所日記の文久2年(1862)分を読んでいくと厚狭毛利家家臣の一人が何らかの罪に問われ九州に逃亡、遂に捕えられる経過が頻繁に出てくるようになった。罪状などは記載がなく分からなかったが、この逃亡を助ける者がいた…

厚狭毛利家代官所日記㉔文久2年⑥梶浦の魚せり場

ふるさと厚狭を給領地にした厚狭毛利家の民政記録、文久2年(1862)を読む。梶浦(かじうら)は厚狭川の河口域にある厚狭毛利領内唯一の漁村であり厚狭地域の南端に当たる。漁区が比較的小さく天保12年(1841)萩藩が地域毎の民情をとりまとめた「防長…

ブログの嬉しい出来事

私の書いてるこのブログは自分で振り返っても少し硬い内容が多いが、自分のスタイルを今さら変えるわけにもいかず自分の文章を貫こうと思っている。こんな硬い内容ながら長く続けているせいか、当初は毎日の訪問者数が10~20件程度だったのが、最近では…

「鎌倉殿の十三人」・大江広元(おおえのひろもと)

今年始まったNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」は大河には比較的取り上げられることが少ない鎌倉幕府の草創期を扱った作品である。鎌倉幕府や室町幕府では評定衆(ひょうじょうしゅう)と呼ばれる将軍を補佐して実力者が合議する機関があったが、草創期でまだ…

防府天満宮の御神木と「無用の用」

山口県在住の同級生から防府天満宮に出掛けた際の写真を送って貰ったがその中に御神木として楠の大木の写真があった。 防府天満宮は日本三大天神の一つで建立されたのは日本で最も古いといわれる。 ・送って貰った御神木写真 ふるさと厚狭の天神様で毎年恒例…

厚狭毛利家代官所日記㉓文久2年⑤農民の大チョンボ

ふるさと厚狭を給領地にした厚狭毛利家の民政記録・代官所日記に、公務にかり出された百姓の大失敗が記録されている。萩藩毛利家では領内を宰判(さいばん)と呼ばれる18の行政区に分けて勘場(かんば)と名付けられた役所を置き代官を始めとする役人が詰めて…

厚狭毛利家代官所日記㉒文久2年④領内での宗門トラブル

江戸時代はキリスト教を禁ずるための宗教統制が有名だが仏教内でも寺毎の檀家リストが宗門人別改帳(にんべつあらためちょう)として戸籍代わりになり、領地内の政治統制にも使用されていた。通常この寺と檀家の関係は親子代々受け継がれるが、人が移動した場…

『六角精児「呑み鉄」の旅』ふるさと厚狭が出てきて大ショック

NHKBSプレミアムで季節ごとに放送される六角精児さんの「呑み鉄本線日本旅」は冒頭からの壇蜜さんのナレーションも心地よく、六角さんの個性丸出しでローカル線のアレコレが紹介され、私の好きな番組の一つで、2020年の9月7日と9月9日のこのブログで…

長州藩士・前原一誠②司馬遼太郎作品の中で

1月2日のこのブログに明治維新の功労者の一人・前原一誠がふるさとと接点があった事とその経歴を書いた。 その人となりを知るため、司馬遼太郎さんの作品に脇役ながら登場する際の描写を挙げさせて貰うことにした。①吉田松陰や高杉晋作など幕末の長州人を題…

長州藩士・前原一誠(まえばらいっせい)

明治維新の三傑といえば異論なく、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允の名前が出てくる。 しかし明治維新の十傑となると、三傑以外に誰を入れ誰を外すかで今でも定まらない。 長州藩の前原一誠は人によってこの十傑に入れたり入れなかったり云わば…

厚狭毛利家の学館・朝陽館

よく知られているように長州藩では藩校として享保4年(1719)萩城下に「明倫館」を開校した。 ここでは主に藩士を対象に、儒学書・兵書の講義と諸武芸の鍛練が行われた。藩内では萩の本藩のみでなく、支藩である長府、徳山、清末、岩国(領)でも藩校が独自…

緒方洪庵とふるさと生まれ・青木周蔵との繋がり

一昨日のこのブログで触れた大阪大学適塾記念センター発行の機関誌「適塾・No54」を読み進めると、江戸時代後期に大阪北浜で蘭学の「適塾」を開いた緒方洪庵とふるさととの繋がりがあったことが書かれてあった適塾記念センターの尾崎真理氏が、現在「緒方…

長州藩士・村田清風(むらたせいふう)

住んでいる地域のゴルフ練習場が閉鎖されたため比較的近い大阪市の練習場に通うようになり、そこに来られている方々と知り合ったが、そのきっかけになったお一人が村田さんで私のブログを見て長州藩の村田蔵六(大村益次郎)のことを語られた。そこで大村益次…

久しぶりの中学校・大阪同窓会

昨日は本当に久しぶり、多分2年ぶりの同窓会で昼時に大阪北新地へ出掛けてきた。コロナのこともあり小ぢんまりとした集まり、ふるさとの中学校の卒業生で大阪周辺に住んでいるものが7人集合した。いつも思うのだが半世紀以上も時間が経過して、500km以…

ふるさと厚狭に遺された前方後円墳

近所の図書館へ行くとたまたま県史シリーズで「山口県の歴史 」山川出版社刊 が目に止まり借り出した。 この中の古墳時代の記事を参考にしながら、「宇部・小野田・美祢・厚狭の歴史」郷土出版社刊、「山陽町史」山陽町教育委員会発行、などを併せて厚狭の前…

ふるさと厚狭にあった軍事施設

ふるさと厚狭の歴史について色々書いてきたものの、戦中のことには未だ触れた事がなく、12月8日の開戦日が巡って来たこともあり少し書かせて貰う事にした。私は戦後の生まれなのでもちろん戦中の記憶など全く無いし戦後の子供時代も軍の関係を見聞きした…

厚狭毛利家代官所日記㉑文久2年(1862)③村継ぎの事例

ふるさと厚狭を給領地とした厚狭毛利家の民政記録・代官所日記を現代文に直す。今回は11月26日のこのブログにまえがきとして書いた「村継ぎ」制度の具体例を3件書き出す。①4月4日の記録 船木市(ふなきいち)町役人から代官所への届け、安芸国(広島県)…

功山寺と長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)

山口県在住の中学同級生から、紅葉できれいな下関市長府の功山寺と隣接の下関歴史博物館に行ってきたとのLINEを頂いた。功山寺は歴代長府藩主の菩提寺で、幕末元治元年(1864)12月15日高杉晋作が長州藩の藩論を回天して尊皇倒幕への道筋を付けるために…

厚狭毛利家代官所日記のまえがき・村継ぎ

封建制の江戸時代は全国に各藩が分立し独自の行政を行っていたので、藩をまたいでの旅は制約が有るように思われるが、時代の半ば頃になると伊勢神宮への「おかげ参り」をはじめとした神社仏閣への参詣旅行が娯楽も兼ねて庶民の間でも行われるようになってき…

厚狭毛利家代官所日記⑳文久2年②洞玄寺の盗人のその後

ふるさと厚狭を給領地とした厚狭毛利家の民政記録を現代文に直す、11月16日のブログの続き。正月5日 ☆盗人宇三郎を厳重に取り調べた結果以下を白状した。 ・仏具は盗んでいない。 ・米は少しずつ盗んで、下津の孫吉を頼んで両人で厚狭市へ持参売り払っ…