ふるさと厚狭

厚狭小学校ゆかりの東明寺について

私は昭和37年(1962)の山口県山陽町(現山陽小野田市)立厚狭小学校の卒業生で、この懐かしい小学校は敷地を新幹線が通ることになり昭和46年旧地より北の厚狭川東岸に移転して現在に至っている。この旧小学校の由来は2020、8、15、のこの日記「…

日本外交の祖・陸奥宗光との縁

私の本を送ったなかでいろいろと反響を頂いたが、同級生の一人から手紙とメールを貰い、その中に、母方が紀州の出自で陸奥宗光(むつむねみつ)と縁があったと書かれてあった。 (陸奥宗光は日本外交の基礎を築いたとも言える人物で外務省にその像が立つ)文中…

ふるさと厚狭・松嶽山と美祢・南原寺

山口県在住の中学校同級生に私の本を送ったところ、同級生の友人も歴史が好きで本を読みたいと言われているとの手紙を貰い、喜んで別の一冊を送った。その友人の方は美祢出身で、美祢市伊佐地区にある真言宗南原寺(なんばらじ)が好きで何度も行かれているら…

天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家⑦最終回

毛利家が一発の鉄砲も撃てないまま、中国8ヶ国120万石から周防、長門2ヶ国36万石に押し込められた関ヶ原合戦の経過を書いてきたが、ここまできて私なりにその敗戦の要因を整理し直すと。1、まず当時の毛利家、当主輝元を始め一族に、近い将来への共…

リタイア後の漁師暮らし

本業をリタイアしてもう10年近くになろうとしている。 だんだんその暮らしも定着し、稼業を少しと、後は頭(読書、このブログ等)と身体(歩き、ゴルフ、野菜作り等)が劣化しないように毎日のリズムの維持に努めている。中学の同級生の一人に私の本を送ったと…

うなぎ籠(かご)と厚狭川の想い出

畑で使用する用品を、通販・アウトドアのカテゴリーで見てみようと色々当たっていくなかで、たまたま「うなぎかご」「うなぎ筒」という商品が目に留まり釘付けになってしまった。黒く着色した丸い筒状のもので直径が10~15cmくらい、長さが約70cm~1m…

厚狭毛利家⑲初代元康の足跡②

1月31日のこの日記に続く2回目で「関ヶ原ー天下分け目と毛利氏の戦い」展示図録をひもとく。この日記に何度か触れたように毛利家3代目輝元には当初、子がなく、叔父吉川元春、小早川隆景等の承認のもとに、叔父元清の子秀元を後継者含みで養子にした。…

天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家⑤

1月29日のこの日記に続く5回目慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原盆地の西方にあらかじめ陣を敷いた石田三成等の西軍に対して、東軍主力の福島正則を先鋒とする豊臣系諸大名や徳川家康の部隊が、南宮山麓に陣を敷いた毛利軍の前面を東から進軍、関ヶ…

厚狭毛利家⑱初代元康の足跡①

関ヶ原合戦の毛利家を追跡する過程で色々な資料を参考にさせて貰ったがその中のひとつが令和元年10月から下関市立歴史博物館で開催された特別展「関ヶ原ー天下分け目と毛利氏の戦い」の展示図録で学芸員松田和也氏が編集執筆されたものである。この資料を…

天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家④

1月26日のこの日記に続く4回目3回目まで、合戦前段における毛利家内部の対立や西国での毛利家領土拡大を狙った動きを書いてきたが、 今回は当主毛利輝元が西軍の旗頭として大阪城に入った慶長5年(1600)7月19日から関ヶ原で東西両軍が激突した同…

山口県名産焼き抜き蒲鉾(かまぼこ)

私の初めての本は、山口県厚狭周辺の歴史などを主に書いているので、友人を通じて山口県在住の従兄弟さんに送って貰ったところ、丁寧な感想と併せ、山口県名産のかまぼこを贈って頂いて恐縮してしまった。山口県のかまぼこはいわゆる「焼き抜きかまぼこ」が…

天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家②

1月21日のこの日記に続く2回目 以下の内容は、朝日カルチャーセンターでの笠谷講師の講義、下関市立長府歴史博物館からの史料、光成準治著「関ヶ原前夜・西軍大名たちの戦い」やその他の史料を参考に自分なりに整理したものです。慶長3年(1598)8月…

丑年に牛の想い出

この年齢になってくると、正月を新しく迎えることは、子供の頃のような嬉しい感情はあまりなく、むしろまた年の峠を越えてしまったという、寂寥感や満足感が混ざったような不思議な感覚の方が強いような気がしている。日頃は無縁で過ごしている干支(えと)だ…

中断中のひとりごと⑤稲のウンカ(雲蚊)被害

先日写真撮影のためにふるさとの山口県厚狭に帰省した事をこの日記にも書いたが、そこで農家生まれの私にとって誠に嫌な、痛ましい景色に頻繁に出会ってしまった。稲が倒れた状態になっているのはウンカによる坪枯れ現象で、一定の範囲内の稲が全滅して収穫…

中断中のひとりごと④古地図を片手にまちを歩こう

このブログを抜粋して本にするため故郷厚狭に帰省し写真を撮り直そうと思っていたところ、ネットの情報で、厚狭の旧跡を古地図を片手に巡っていくイベントを知り、訪ねる箇所が私が写真を撮りたい箇所と重なることが分かり、申し込んで参加してきた。ベース…

中断中のひとりごと③適塾塾生桑原氏の墓

このブログ日記から抜粋して本にするため、この際、ふるさと厚狭の写真を取り直そうと一泊二日で厚狭に来ている。この機会に、史料に記載があるものの未だ見ぬ史跡などにも当たって見ようと考えていたが昨日、厚狭の象徴のひとつ物見山の護国神社で出会いが…

厚狭毛利家⑰文書のその後/ブログの一時中断

◎今年3月20日、365話目になる節目のこの日記に厚狭毛利家文書のことも含めて書いた。この文書には初代毛利元康関係の貴重な書状の他、厚狭毛利家の「萩屋敷での日記・御用所日記」や「厚狭屋敷の日記・代官所日記」等がありその一部は第28集(200…

ふるさと厚狭の石炭③

〈8月30日ふるさと厚狭の石炭②の続き〉 昭和の時代に入ると家庭用練炭(れんたん)が普及し始めこれの原料としての需要から昭和7年埴生(はぶ)炭鉱が再開、昭和12年には旧野上炭鉱が生田(いくた)炭鉱として再開した。日中戦争が始まると石炭は産業エネル…

ふるさと厚狭の石炭②

〈8月26日ふるさと厚狭の石炭①の続き〉明治2年4月長州藩石炭局は吉田宰判(よしださいばん、長州藩内西部の行政区画)内の石炭確保に乗りだした。厚狭・郡村荒草(こおりむらあらそう)由田ヶ浴石炭山、同百合野石炭山、及び山川村下村石炭山の3ヶ所が対象…

ふるさと厚狭の石炭①

山口県は地下資源である石炭に恵まれた地域で大嶺炭田や宇部小野田炭田など主に県の西部を中心に炭鉱が開発され明治以後の産業発展に大きく貢献してきた。私は厚狭の山川地区にある厚狭中学校に通ったのだが、その通学路は所々陥没した蓮沼になっており雨が…

厚狭毛利家⑯五代目元連(もとつら)の失脚

長州藩では幕末、実質100万石と言われたその経済的基盤もあって雄藩としての飛躍に至るのだが、藩政の初期は関ヶ原敗戦の後始末や、貨幣経済の発達に米穀基本の体制が追い付かないこと等で常に財政は窮迫状態にあった。この窮迫状態から抜け出すために諸…

ふるさと厚狭の教育事始め④厚狭中学校

8月15日のこの日記に厚狭(あさ)小学校の事を書いたので、やはり続いて厚狭中学校の事を書いておかなければならない。私は昭和40年(1965)の厚狭中学校卒業生で手元にある卒業アルバムを見ると同年は10組、442人の大人数だった。 アルバムから転…

ふるさと厚狭の教育事始め③厚狭小学校

私は山口県旧山陽町(現山陽小野田市)立厚狭(あさ)小学校の昭和37年(1962)の卒業生である。当時の小学校は厚狭殿町(とのまち・厚狭毛利家の居館がこの地にあり付近をこう呼んだ)にあり生家のあった鴨庄(かものしょう・京都賀茂神社の荘園であったことか…

ふるさと厚狭の教育事始め②寺子屋その他

藩政時代に庶民に教育を施したのは寺子屋である。1教室1教師、生徒は普通2~30名程度、その能力や年齢もまちまちで、複々式能力別の教育になっていた。 生徒の内約4分の1が女子といわれる。史料を見ると厚狭(旧山陽町内)には27を数える寺子屋があり…

ふるさと厚狭の教育事始め①/炎天下の辛抱ゴルフ

よく知られているように藩政時代の教育は武士階級を中心にして実行された。 多くの藩で藩校が設立され藩士の子弟が教育を受けたが、長州萩藩でも藩校明倫館がその役目を負った。これにならい長州藩内では、一門や大身の藩士の中にも学館を設ける動きがあり一…

左衛門尉(さえもんのじょう)あれこれ

中学校の同級生からの頼まれ事で、家に伝わる系図の写しの内、遠い先祖について書かれてある来歴を読んで欲しいとの事であった。読んでみると、このご先祖は歴代中国地方の大々名・大内家の家臣とのことで、重臣陶晴賢が、主君大内義隆に謀反を起こして殺害…

500日・500話にたどり着いた

この日記ブログを2019年3月22日から書き始めて、とうとう所期の目標500日、500話に今日到達した。 読んで頂いている皆様の励ましで何とか途切れず継続出来たことに心から感謝します。「はてなブログ」のことがインターネット上で簡単に始められ…

明治のふるさと厚狭①厚狭駅の開業と日本海海戦

昭和懐メロの定番のひとつに「ああ上野駅」という井沢八郎さんが唄った歌があり「♪上野はおいらのこころの駅だ♪」と唄われるが、私にとってのこころの駅は山陽本線厚狭駅になるだろう、帰省の度にここに降り立つ。 現在の厚狭駅 明治時代になると新橋~横浜…

厚狭中同期打球会の会合

昨日は大阪に住む故郷、山口県山陽町立厚狭中学校の同級生でゴルフをたしなむ3名「厚狭中同期打球会」の久しぶりの会合で夕方から大阪天王寺の和食店「がんこ」へ。最近全くゴルフ会も出来ておらず、コロナの関係もあり躊躇するところもあったが、以前から…

ふるさと・厚狭の特産「赤間硯」の歴史

私の子供時代、多分昭和30年代頃だと思われるが、山陽本線と美祢線の駅である、国鉄厚狭駅の切符売場の近くに厚狭特産品コーナーとしてガラスのショーケースが置かれ、その中に紫色の「赤間硯」(あかますずり)が名札と共に陳列されていた記憶がある。 ☆ち…