戦国時代山口県の豪族・江良(えら)氏

先日の同窓会に郷土史の資料をハンドキャリーして貰った同級生の地元は現在の周南市鹿野(かの)で、その資料のなかに鹿野地域を地盤とした戦国期の豪族・江良氏の名前がある。

江良氏については2021年4月9日のこのブログに、『評伝「毛利元就」と周南・鹿野の江良氏』という題で一度書いたことがあるが、江良氏が、毛利氏に滅ぼされた陶(すえ)氏の家臣であったこともあり遺された史料は少ない。

最近偶然に、山口県文書館の専門研究員・和田秀作さんが講座で発表された「戦国時代の江良氏について~毛利氏との関係を中心に~」の資料を入手出来たが、その中にも今まで江良氏の専論が殆どないと書かれてある。

じっくり読ませて貰った内容で新たな知見になったポイントをこの機会に書いておきたい。

・戦国期の江良氏は陶氏の最有力家臣のひとつで、中国地方の覇権を大内氏、尼子氏、毛利氏の三者が争った主要な合戦の殆どに従軍している。

(陶氏は大内氏の親族でその軍事部門を預かる筆頭家臣家)

陶隆房(晴賢)の時代、江良氏は安芸国佐西郡で寄親(よりおや・旗頭)として活動しており毛利氏と接点があった。

・江良氏には複数の系統があり、何れも代々の官職を名乗る。

*丹後守(たんごのかみ)系ーー重信、房栄(ふさひで)など

*弾正忠(だんじょうのじょう)系ーー賢宣(かたのぶ)、愛童(幼名?)など

*その他ーー神六など

・江良氏の痕跡は本拠地でもあった鹿野に残されており、龍雲寺はその屋敷跡の一部と伝わり、土塁跡には弾正糸桜と呼ばれる垂れ桜の名木がある。この名の通りこの一帯は弾正忠家の屋敷であったと考えられる。

・後背地にある藤掛山城跡、撒骨山(さんこつざん)砦跡は中世後期の山城で共に江良氏に関わりがあるとされる。

・2021年のこのブログで、作家・古川薫さんが書かれた「毛利元就とその時代」に、江良一族で最も著名な房栄(ふさひで)が陶氏と毛利氏が対立した折、毛利方へ寝返ろうとするが戦後の報償(加増)で折り合わず、元就は陶方に房栄裏切りの情報を流しこれを信じた陶隆房は房栄を急襲自刃させたと書かれていることを示した。

然し同時代の書状を分析した結果では、加増を要求したのは江良一族の別人で江良神六と呼ばれたもの。房栄は以前から接点があり実力を知る毛利氏との対決に慎重論を唱えたため討たれたと考えられる。

・毛利氏が厳島の合戦で陶氏を滅亡させた後、防長二州の制圧に乗り出すが、弾正忠家・賢宣は周防で抵抗、その後小早川隆景の調略により毛利に降伏、以後の防長制圧に貢献する。

賢宣は毛利の九州攻めで討死し、未成年の愛童が跡を継ぎ、毛利氏の直臣(じきしん)として一定の地位を確保していく。

大内氏、陶氏滅亡後毛利氏の家臣として活動が確認できるのは弾正忠家のみであり、少なくとも天正11年(1583)までは活動が確認できる。

・その後、江良弾正忠家の子孫は帰農、防長風土注進案によると幕末頃には長門三見村(さんみそん・現萩市)に居住していたとのことである。

🔘江良氏の帰農は毛利の家臣の多くが土着帰農した関ヶ原直後の時期かもしれない。

🔘今日の一句

 

水鳥の番(つが)いを睨み孤鳥立つ

 

🔘昨日歩きの途中落ちているドングリが目に入り、つい周囲に落ちているのを拾い集めてみたが、同じブナやクヌギの仲間でもその実に色々な種類があるのがよく分かる。