陶晴賢(すえはるかた)の下剋上とふるさととの関わり

周防山口の戦国大名大内義隆が家臣である陶晴賢の謀反、下克上により自害せられた、いわゆる大寧寺の変とこの事に関わるふるさと山口県厚狭鴨庄(かものしょう)の部分を書き残しておきたい。

義隆の時代、天文20年(1551)、大内氏は西国きっての大々名でその領国は北九州と西中国8ヵ国に及んでいた。
その筆頭家臣が陶隆房(のち晴賢)で大内氏の本拠地・周防国(山口県東部)の守護代(しゅごだい・守護の代行者で実質支配者)を兼ねていた。

大内氏の領国統治は家老職に当たる評定衆(ひょうじょうしゅう)が合議担当し8人程であったが、この内領国の守護代を兼ねているのが、陶隆房長門国(山口県西部)守護代内藤興盛(おきもり)、豊前国(福岡東部と大分北部)守護代・杉重矩(しげのり)の3人で、陶氏を筆頭とした最高実力者メンバーと云える。

陶隆房が謀叛を実行した際、内藤、杉両氏は義隆の呼び掛けに応じず陶軍に味方し、陶隆房は義隆自害後大内領国の大半を掌握した。
然しその翌年突如、陶軍は杉重矩を攻めて自害させる、元々互いに不和であったのが、再燃したとも言われる。

以下「山陽町史」の記述に依れば、
杉重矩は大友晴英を大内家に迎えるのに反対で一旦隠退したが、陶軍の来攻を受け厚狭郡万倉(まぐら)の本領に逃れ、更に追撃を受けて厚狭下津に走り長光寺(現在の洞玄寺)で自刃した。
その遺骸は旧領であった厚狭鴨庄(かものしょう)・円応寺(えんのうじ)に葬られた。

◎鴨庄は私の生まれた村で山裾にある曹洞宗・円応寺は子供の頃遊んだエリアの北端と言え、私が通った幼稚園はこの寺の運営だった。
従姉妹に撮ってもらった直近の円応寺全景

一昨年円応寺に今も残る杉重矩の墓を訪れたが、その時の写真を撮り忘れ「山陽町史」の写真を借用した。
中央の塔身の欠けたのが杉重矩の墓

◎杉氏が鴨庄を所領にしたのは、応永9年(1402)厚狭一円を治めた箱田氏を討った戦功で大内氏から拝領、安堵された事によると思われる。
従ってそれから約150年間鴨庄は杉氏に縁があった事になる。

◎これはハイビスカス?違う気もするが?