「一冊でわかるサウジアラビア史」

関眞興(せきしんこう)著「一冊でわかるサウジアラビア史」河出書房新社 刊を読み終えた。

「世界と日本がわかる国ぐにの歴史」シリーズの中の一冊であり、現在も紛争が途切れない中東の盟主で、日本が輸入原油の約4割を頼る国で有りながら、なかなか国の実態が見えて来ず、以前からサウジアラビアのことを知りたいと思った矢先、図書館で見つけたものである。

サウジアラビアとは周知のように「王家・サウド家のアラビア」という意味があり、東のペルシャ湾、西は紅海に面するアラビア半島の大部分を占める絶対君主制国家である。

国の西部にイスラム教の二大聖地・メッカとメディナを抱え、世界の石油埋蔵量の約20%を占めると云われることなどからイスラム世界のリーダーであり、G20の構成国でもある。人口は約3200万人。

これは現在の中東情勢を理解する上で大切なことだが、アラブ人とはアラビア半島、北アフリカ、中東諸国に暮らすアラビア語を話す人々のことで、一部を除き人口の多数派がイスラム教徒である。

同じく中東やイスラム世界の盟主を自認する、イラン(ペルシャ語)、トルコ(トルコ語)などはアラブ人ではない。

この本の中ではメソポタミア文明や古代オリエント世界での記録から始まる、ラクダを家畜や乗り物として活用し始めたアラブ人の長い歴史が順次述べられる。

その中にアラブ人だけでなく世界史にも大きな影響を与えた、6~7世紀にかけての預言者ムハンマドの登場とイスラム教の誕生、教徒によるアラビア半島統一が書かれている。

ここでは字数の都合もあり1932年に建国され現在に至るサウジアラビア王国の歴史のなかでの幾つかのキーポイントを書き出しておきたい。

・サウジアラビアの建国者・アブドゥルアジズ(イブン・サウド)はかつてアラビア半島の実力者であったサウド家を再興、半島を武力統一する。「アラビアのロレンス」が支援したフセインが建国したヒジャーズ王国を滅ぼし、宗教上の敵対者も排除して、近代国家・サウジアラビアの建国に至る。

・イスラム教の原則では(利息を前提にした)銀行の設立は認められないが、サウジアラビアでは中央銀行の役割を果たす通貨庁1952年に設立、紙幣(リヤル)の発行が1961年から始まる。

・1938年サウジアラビア初の油田がアメリカ資本の協力で発見、その後も油田が多く見つかり石油産業を中心にした経済外交政策が進められる。

・1945年2月アブドゥルアジズは米大統領フランクリン・ルーズベルトと会談、安全保障や石油開発について協議した。この時ルーズベルトはイスラエルの建国について同意を求めたがアブドゥルアジズは拒否したと伝えられる。

・1955年日本と国交樹立、1958年アラビア石油を設立し、地質調査や試掘が始まり1960年大規模海底油田が発見され、日本企業として初めて海外での油田発見となった。

・2015年サルマーンが現在の第7代国王に即位した。アブドゥルアジズの25番目の息子といわれる。国王のもと2人の皇太子が廃され息子のムハンマドが皇太子となり、現在のサウジアラビアを実質的に率いている。

・ムハンマドは副皇太子時代から「ヴィジョン2030」を発表し、石油と天然ガスにすべてを依存する現状を脱し多角的な経済発展や雇用を生む改革を進めている。

◉今日の一句

朝ベランダから垂水沖を見ると、太刀魚やしらすなどこの時期の漁をする白い小型の漁船が10数隻集まっている。漁場はほぼ決まっている。

 

朝ぼらけ太刀魚船の競う沖

 

「一冊でわかるサウジアラビア史」

「奥羽の義・戊辰150年」

河北新報社編集局編「奥羽の義・戊辰150年」河北新報出版センター 刊を読み終えた。

河北新報社は宮城県仙台市に本社を置き宮城県をはじめとする東北6県で約35万部の新聞「河北新報」を発行している。

実は垂水図書館でこの本に出会った際、借り出そうか止めようか暫く考えた末にようやく借り出して来た本である。

発行者と云い、題名と云い、明らかに幕末~戊辰戦争~明治維新の時代をいわゆる旧幕府側・奥羽越列藩同盟31藩側に立って編集されたもので、私の故郷山口県・旧長州藩とは対立する歴史認識でまとめられたものだろうと予測したからに他ならない。

然し認識は違えど違う見解もじっくり聞いておくことも必要だろうと思い切り読みはじめたものである。

その編集姿勢はプロローグに書かれている次の一文に代表されている。

勝った者が正しく、敗れた者に正義はなかったのか。そんなことはない。東北の各藩はそれぞれの信念に従い戦った。安易に長いものに巻かれず、公正を重んじた。

維新が近代化の第一歩となったことは疑いない。ただその船出は戊辰戦争の犠牲と表裏一体だ。実相を問い直すべく、今も史跡に刻まれる記憶をたどりたい

記憶をたどる旅は

文久2年(1862)会津藩主・松平容保が京都守護職を拝命し、藩士1000人と入京するところから始まり、元治元年(1864)禁門の変で会津が官軍、長州が賊軍、慶応3年(1867)王政復古の大号令、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い、慶応4年1月~翌年5月まで戊辰戦争(上野彰義隊の戦い、奥羽・北越戦争、函館五稜郭の戦い)までが、結成された奥羽越列藩同盟側の視点で描かれる。

また戦争後、薩摩士族が起こした西南戦争の鎮圧部隊への参加、会津藩や仙台藩の北海道開拓による再起の経過も記される。

当然、会津藩白虎隊(16~17歳の部隊)の自決のことにも触れられていて、その中には山口県内でも知る人ぞ知る白虎隊士・飯沼貞吉のことにも筆が及んでいる。

飯沼貞吉は飯盛山で集団自刃した16名の内のひとりで、奇跡的に蘇生して地元の人に助けられた。その後新政府軍に捕らわれた後長州藩士・楢崎頼三に引き取られた。

楢崎は彼を地元、現在の山口県美祢市に連れ帰り密かに養育勉学に就かせた。飯沼は電信技師の資格を得て各地に赴任すると共に陸軍軍人の技術者として出征、帰国後も日本の電信電話の発展に寄与、仙台で没した。

◉山口県生まれとしてはやはり違和感を感じる部分もあるが、立場を変えてみるとかなりの部分は理解できる。何れにせよ読んでよかったと思えている。

◉今日の一句

 

一房に花と実たわわ百日紅

 

写真にも現れているが百日紅は一枝(一房)に花と実を同時に見ることが出来る。これは先に咲いた花が散って実になり始める傍らで別のつぼみが開花するサイクルを繰り返すためである。

実際に百日咲くのは見たことないが、名前はこの長期間咲き続ける性質に由来する。

◉住んでいる施設の百日紅(サルスベリ)

「奥羽の義・戊辰150年」

『「昭和天皇実録」講義』/蝉シリーズ③ミンミンゼミ

古川隆久、森 暢平、茶谷誠一、共編『「昭和天皇実録」講義』吉川弘文館刊 を読み終えた。

周知の通り「昭和天皇実録」は昭和天皇の一代記であり、さかのぼる例として「大正天皇実録」「明治天皇紀」があり天皇紀は伝記の性格が強く、実録は天皇に関する公式な編年体記録である。

昭和天皇が崩御されたのは1989年1月7日、その7ヶ月後宮内庁が「昭和天皇実録」の編纂を始めることを公表、出来上がるのに24年かかった。

分量は全12137ページ、天皇の元側近約50人に聞き取り調査したほか、関係者の日記、手帳、都道府県の公文書など計3152件の史料を集めたと云われる。

「はじめに」にも触れられていて、発刊時のマスコミの論調にもみられたがこの実録の短所は、宮内庁の立場から余計な議論を発生させたくないという消極的な方針や記述が垣間見えたり、個々の事象の背景が書かれていないので素人には読みにくいなどがある。

この本はこのような短所を理解しつつ、「実録」の記述をどう読み解くべきかの視点を研究者の立場からわかりやすく提供し、そうした作業を踏まえて「実録」の意義と問題点を具体的に示そうとしている。講義の名がついた書名もこうした意味を踏まえてのものらしい。

何れにせよ昭和天皇の生涯を追跡した「実録」を、編者3人を含む計10人の研究者である執筆者が分担し、前記の趣旨に従い読者に提示したのが本書である。

昭和天皇の生涯をみた場合、私を含む大方の第一の関心は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと続く戦争の時代に、天皇はどう関わったのかが歴史上の最大関心事と思われ、この点に関する記述の内、私の個人的見方で重要と思われる部分をピックアップしておきたい。

「実録」の編集方針として、天皇がつねに日中間の紛争や戦争を憂慮し、その解決を望んでいたという「平和主義者」としての側面や、御前会議で天皇が発言しなかったことを強調することで、アジア・太平洋戦争期における天皇の戦争指導者としての役割を過少に描きたいという意図が透けてみえる。

・開戦前は対米英戦に消極的だった天皇も、ひとたび開戦の詔書にサインした以上、「陸海軍を統帥」する大元帥として戦争指導にあたり、日本を勝利に導かねばならない責務を負う。そうである以上軍の最高司令官として戦局の推移に一喜一憂するのは当たり前の所作であるはずなのだが、「実録」では全体の編修方針からか、ここでも感情面の表記には慎重なスタイルを保っている。

・本来、戦時中の天皇の言動を追うことは、日本が経験した戦争の「加害」と「被害」の両面を理解することにつながるはずである。しかしながら「実録」を読むと、どうしても「加害」の側面がそがれてしまっている感はいなめない。

◉今日の一句

 

三世代所作それぞれの墓参り

 

◉健康公園周辺の蝉③ミンミンゼミ

鳴き声は名前の通りミーンミンミンミン、ミンミンミーなどで、餃子の老舗・珉珉の宣伝のようにも聴こえるが、この近辺でも出会うことが少ない。

私が子供の頃このセミは全く見た記憶がない。

今年私がようやく出会えたのは以下の写真の3匹だけで、クマゼミやアブラゼミに比べると圧倒的に数少ない。西日本にはあまり生息せずどちらか云えば山地に生息しているらしい。

ミンミンゼミはクマゼミやアブラゼミに比べると暑さに弱い傾向があり、近年の温暖化傾向は更にミンミンゼミに不利に働いている。

体長は翅を含めるとアブラゼミと同じくらい、頭部はクマゼミに比べ横幅が狭い。

それにしても青や緑の斑紋が鮮やかで翅にも模様があり、私が知るなかで全体的に最も美しい種と思え嬉しい出会いである。

◉セミは襲われたりしたときなども大声で鳴くが、鳴く真の目的はオスが子孫を残すべくメスを呼び寄せるためで、鳴くのはオスだけでメスは鳴く器官がない。

私が観察しているなかで最も鳴き声で効果があったのはクマゼミの例で、高い声で鳴き出すと見る間に5~6匹が飛んで来て周りに集まり、メスの間で争う姿も見られた。

一生懸命鳴いているのに全くメスが寄り付かない個体もいて、鳴き声で差が出るのだろうか?

『「昭和天皇実録」講義』

司馬遼太郎「モンゴル紀行」/船シリーズ⑤

7月17日のこのブログに書いたように先日「司馬さんとモンゴル」という講演会に大阪箕面(みのお)まで行って来たが、やはりこれは司馬さんの「街道をゆく」シリーズの一部である「モンゴル紀行」を読み直さなければと思い、収録されている「司馬遼太郎全集第47巻」を垂水図書館で借り出して来た。

凡そ100ページの紀行文だが四章に分かれていて各々、「ハバロフスクへ」「イルクーツクへ」「ウランバートルへ」「ゴビへ」となっている。

これは司馬さんが訪れた1973年当時、外モンゴルと云われた一帯は、既に社会主義化したモンゴル人民共和国となっていて、日本からの直行便はなかった。

その為新潟空港からソ連領ハバロフスクへ行き、そこから同じソ連のイルクーツクへ飛び、そこでモンゴルへのビザを入手し、そこからモンゴルの首都・ウランバートルへ飛び案内役のツェベックマさんなどと知り合い、更にゴビ草原に飛び滞在した、全行程8月21日~31日の紀行文であることを示している。

他の「街道をゆく」も同じだが、興味深い内容があまりに多く、書き出すとキリがないので、各章で最も興味を引く内容ひとつを私の基準で抽出し書き留めて措きたい。

それにしても地球儀というのは重宝なもので、司馬さんの旅路を手元にある古いこれを幾度も廻すことで実感出来る。

①ハバロフスク(シベリアの東端、黒龍江・アムール川のほとり、人口約62万)

シベリアがもとからロシア人のものであった事実はなく、西から来たロシアのコサック群の活動によって併呑されていったもので、19世紀の概念で云えば侵略である。

ハバロフスクの由来であるコサックの隊長ハバロフの活動は、19世紀以前の概念で云えば英雄的で、駅前広場には大きな銅像が立っていて歴史的存在のハバロフ隊長は幸運であった。

一つ行動の概念が、近代のある時期に入って時間的に一線がかくされ、その一線を境に善悪をまるで異にするというのは文明史の妙趣であるように思える。

②イルクーツク(モンゴル国境から北へ約300km、バイカル湖のほとり、人口約62万)

司馬さんはイルクーツク空港の待合室でイルクーツクの巨大発電所を見物に来た東北大学工学部の学生に話しかけられる。司馬さんがモンゴルに行くと言うとそれまでいきいきしていた若者の表情が急に停まってしまう。

シベリアの水力発電所と違い、脳裏にどんな画面も描けないモンゴルは当時そういう所であった。

半世紀前に革命を起こし一部で強烈な近代化を遂げつつも、大部分は標高1400mの草原で、ほとんど悠久ともいうべき時間に堪えつつ古代以来の遊牧という生産形態をたもち、フェルトの天幕に紀元前から住み、紀元前からの馬乳酒をいまなお飲んでいるという国である。

③ウランバートル(モンゴル国の首都、イルクーツクから東南方向、人口約167万)

司馬さんは国立中央オペラ劇場の前を通り、この劇場は日本人捕虜の労役によって建てられたものだという知識をもとに以下のように述懐する。

敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリヤからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働をさせたことについて、言いがたい感情をもっている。

連れてゆかれた人が同世代のひとびとだっただけにやりきれない思いを持たざるをえず、国家論抜きの情としてである。

当時のソ連は、旧満州で抑留した日本人捕虜をモンゴルにも配給した。モンゴルだけでその数は13847人だったという。2ヵ年の抑留中、そのうちの1割強(1684人)が死んだ。

④ゴビ(モンゴル国の東南部、中国の内蒙古自治区にまたがる草原と砂漠地帯)

司馬さんは草原の包(パオ)に泊まりそこで若者が演奏する馬頭琴を聴く。以下馬頭琴の説明の一部である。

馬頭琴はモンゴル民族独特の楽器で、音も仕掛けも中国の胡弓に似ている。しかし胡弓の影響でできたものでなく元帝国のころアラビア人が持ってきた二弦弓奏楽器の変化したものだといわれる。

三味線の胴のようなものに羊皮が張られていて、共鳴装置になっている。その胴から1mほどのサオが伸びていて、そこに2本の弦が張られている。2本の弦は、馬のシッポの毛である。その弦へこすりつける弓も馬のシッポの毛である。このむせぶような微妙な音を、モンゴル人は何世紀もかぎりなく愛してきた。

◉余談ながら、12~13世紀頃モンゴル族がチンギス・ハンをリーダーに世界帝国を築いた時期、モンゴル騎兵は背に馬頭琴を背負い、1人あたり約10頭の替え馬を連れユーラシア大陸を疾駆したと云われる。

◉今日の一句

 

一葉落つ盛者必衰(じょうしゃひっすい)世の習い

 

◉ベランダから見る垂水沖の船シリーズ⑤

8月11日(火)PM3:20、垂水沖を東南へ行く、さやえんどう型LNG 船「JUROJIN(寿老人) 号」総トン数・136739t、運航・商船三井

姫路・飾磨港を出て紀淡海峡経由、オーストラリア・イクシスLNG プロジェクト基地へ向かっていると思われる。

イクシスLNG 基地は日本企業・INPEXが主体のプロジェクトで、関電や大阪ガスも出資していて、この船はイクシスと関西間の運航が多い。

さやえんどう型LNG 船は三菱重工が開発造船したもので、球形のタンク(マメ)を連続したカバー(サヤ)で覆い、剛性向上、保守のしやすさ、空気抵抗低減等を図っている。

「司馬遼太郎全集第47巻」

 

スポーツ×ヒューマン 髙木美帆/蝉シリーズ②アブラゼミ

NHK TV に「スポーツ×ヒューマン」という番組があり、「スポーツが織り成す人間ドラマにこだわるドキュメンタリー」がキャッチフレーズである。

スピードスケートでは、私がずっと応援していた小平奈緒選手とそのライバルでありながら尊敬と友情を交わした韓国のイ・サンファ選手を取りあげた「あなたがいるから戦える~小平奈緒×イ・サンファ」が記憶に残る、良質なドキュメンタリー番組である。

今回録画再生して観た「スピードスケート・髙木美帆"集大成"の物語」は再放送で実は私も二回目の視聴になる。

この再放送は髙木美帆選手が今般、オリンピック女子で最多10個のオリンピックメダルを獲得したことで、国民栄誉賞を受賞されたことを受けてだろうと想像している。

私が髙木美帆選手を知ったのは彼女が中学生の頃だと思うが、週刊文春or週刊新潮のグラビアで女子スピードスケートの逸材、有望選手として紹介されていた記事からで、これをきっかけに途中の挫折も含め、途切れ途切れにそのニュースを受け止めて来たような気がしている。

小平奈緒選手はその体格から見ても短距離のスペシャリストだが、髙木美帆選手はオールラウンダーとしての活躍であり、欧米の選手と比べて不利と思える中長距離でも戦ったこそのメダル数だと思われる。

集大成とは、髙木選手がスケーターとして過ごした現役引退までの17年間の歩みを記録映像やロングインタビューで振り返ると共に、オリンピックで2度の銀メダルに終わっている1500mで、現役最後と心に決めていたミラノ・コルティナオリンピックで金メダルを目指す4年間の戦いのことである。

コーチの言葉や自身の体験から「変化すること変わること、新しいエッセンスを取り入れていくことを続けていかないといいパフォーマンスはうまない、成功はない」という信念で、所属先やチームを変え、永年使用してきたスケート靴のブレード(刃)を変えるといったことにチャレンジする姿が映し出される。

髙木選手が語った1500mについての言葉「短距離と長距離両方滑れる猛者が集まる競技でスピードとスタミナの両方が要求される」が腑に落ちた。

結果的にミラノ・コルティナでは髙木美帆選手は銅メダル3個を得たもののスケート人生をかけた最後の1500mでは6位に終わりこれを区切りに現役を引退した。

私は女子スピードスケートで、髙木美帆選手、小平奈緒選手という世界と戦える優れた努力の人を二人同時期にみることが出来てとても幸運だった気がしている。

目標を定めそれに精魂を傾ける姿をみると及ばず乍ら自分もという気持ちになって来る。

◉今日の一句

 

桐一葉鬼と言われし昔あり

 

◉健康公園周辺の蝉②アブラゼミ(油蝉)

クマゼミから少し日にちをおいて公園の準主役を張るようになって来たが、体長4~6cm位でクマゼミより少し小さい。観察すると、個体ごとの体長のバラツキが少し大きい気がする。

鳴き声はジを主体に、ジッジッジッジッやジリジリジリ、またジ----------- のように聴こえる。

地中の幼虫でも地上で成虫になっても、樹液を吸って生きるこの条件下で差異が出るのだろうか?蝉がどうやって樹液を摂取するのか興味を覚え調べてみた。

私が撮った以下に添付の写真の内、1枚目~3枚目に白矢印で示した口吻(こうふん)と呼ばれる管のようなものを木に突き刺し使う。

この管の内部にはドリルの役目をする2本の針(交互に動かし木に穴を開ける)と、合体してストローの役目をする2本の針(吸い上げる管と唾液を送る管)、計4本の口針が内蔵され、地中での幼虫期、樹上(地上)での成虫期を通じ木の根や枝幹から樹液を吸い上げそれを糧にして生きる。

そうであれば体長にバラツキが出るのは当然とも云え、蝉の生態に一歩近付いた気がしている。またアブラゼミは他のセミに比べても桜の木に多くとまっているが、それもこの樹液の質に由来するのかもしれない。

(余談ながら、これまでこのブログの野鳥シリーズで書いて来たように、桜はその蜜や実を野鳥が好むが、今回セミにも恩恵を与えていることがわかった。人は桜の花を愛でるが、桜は生物と広範囲に共生している。)

アブラゼミのような翅全体が不透明の蝉は世界でも珍しい部類らしいが、私の子供時代から身近に居た種である。

これから更に口吻を樹皮に刺し込もうとしている。

これは全体に色淡く羽化からあまり時間が経ってないと思われる。

アブラゼミの幼虫の殻には泥があまり付着しない特徴がある。

セミ穴もアチコチ沢山。(幼虫一匹に穴一つ)

 

「開港期神戸と初代兵庫県知事伊藤博文」/蝉シリーズ①クマゼミ

明治憲法制定の最大の功労者である初代総理大臣・伊藤博文が、兵庫県の初代知事であったことは兵庫県民に広く知られた話しなのだろうか?

伊藤博文は私の故郷山口県、当時の長州藩出身の明治維新立役者のひとりでもあり、神戸に引っ越したのも何かの縁と思い、この初代兵庫県知事時代の伊藤博文の事績を知りたいと思って来た。

たまたま垂水図書館で神戸市発行の神戸市史紀要「神戸の歴史第27号」のなかの研究論文のひとつに瀧井一博氏が書かれた「開港期神戸と初代兵庫県知事伊藤博文」が載せられていることを知り、借り出し読ませて貰った。

瀧井一博氏は2022年1月13日のこのブログに書いた「伊藤博文・知の政治家」の著者でもあり専門は法制史、国制史である。

伊藤が初代知事になった、慶応4年(1868)5月当時の兵庫県は第一次兵庫県と呼ばれる県域で、列強に開港を約した兵庫津(ひょうごのつ)を中心とした旧幕府領に飛び地を含む旧摂津国の西側の範囲で、現在の兵庫県域からすると狭いエリアであった。

兵庫県出身の方はよくご存知の事と思われるが、私は神戸に引っ越して来て初めて以下のことを知った。幕末に列強と結んだ条約で開港した兵庫津は平清盛にも繋がる古代からの港だが、実際の開港に当たり後背地が狭く居留地の設定にも困るということから、兵庫津の東の神戸が実質上の開港地となり県庁も置かれ発展していくことになった。

著者は伊藤博文を「神戸開港の申し子」と呼んでいるが、それは以下の2項に依る。

・伊藤の新政府での経歴は外交官としてスタートし慶応4年1月外国事務掛を拝命、神戸事件(備前藩士と外国人兵士のトラブル)の解決に奔走、更に同年2月の堺事件(フランス水兵と土佐藩の発砲事件)の解決に外国事務局判事の肩書きで善後処理に当たった。

・同年5月兵庫県発足と共に初代知事として、神戸開港場管轄外国事務を含む開港場行政の責任者として近接の開港場・大阪との折衝や居留地建設を含む諸外国との軋轢解決に当たった。その中には米国船員が兵庫県庁に乱入した事件処理もある。

伊藤は兵庫県知事在職時、自らの出自を踏まえ、民の重視、平等主義に立った兵庫論と俗称される「国是綱目」という建白書を中央に提出して兵庫県を去ることになるが、すぐに中央に取り立てられ東京に活動の場を移す。

いわば伊藤の国民政治家としての飛躍の踏み台になったのが兵庫、神戸の地であると著者は述べている。

伊藤博文はその生涯の終わりの時期に初代韓国統監となって半島に渡り植民地行政に携わりハルピンで凶弾に倒れる。

この為伊藤を帝国主義の元凶と見なされることも多いが、著者は伊藤の底辺にあるのはデモクラシー重視の理念であり、要人のなかで一番最後まで韓国併合に反対したのが伊藤博文であることは、専門家の共通した見方であると書かれている。

◉今日の一句

 

同胞(はらから)もいづこより見ん遠花火

 

◉健康公園周辺の蝉①クマゼミ(熊蝉)

今この近くで最も沢山居る蝉はクマゼミで、鳴き声も「ワシワシワシワシ」と最もうるさく蝉時雨そのものである。

私が子供の頃クマゼミは希少種で捕まえれば勲章ものであった。

現在の中学二年国語教科書の一部に、仮説を立て検証していくことで「クマゼミ増加」の原因にたどり着いた生物学者・沼田英治(ぬまたひではる)氏の文章が載っている。

この研究のきっかけは私と同じ疑問、少年時代クマゼミは数が少なく「セミの王様だった」が、「最近特に都市部近くで急激に増加しているのはなぜか?」であるらしい。

過程は別にして、その結論は以下の2点が原因と書かれている。

①卵から孵化(ふか)したセミが木から一旦降りて土に潜るには雨が欠かせない。気温が上昇してクマゼミの孵化が早まり梅雨と重なるようになった。

②クマゼミの幼虫は他の種に比べて土を掘る力が強く、乾燥や地表の整備などによって硬化した都市部近くの地面にも潜れる。

身体全体が色淡く幼虫から羽化してさほど時間が経過していないことがわかる。

幼虫、身体中に泥がついていて湿った地面の穴を掘り抜け出て来たことがわかる。

木の根元、幼虫が這い出た穴直径約2cm

「神戸の歴史27号」

 

「風、薫る」「りんと直美、道なき道を行け!」

NHK 朝ドラ「風、薫る」は後半に入り赤痢の発生した村で主人公のりんと直美が奮闘するストーリーで、身の危険を顧みず働く姿や、子供が赤痢にかかった母親を心配して励ますシーンには恥ずかしながら何度か涙がこぼれた。

今、施設の図書室にある先月7月号の「文藝春秋」を読んでいるのだが、その中の「巻頭随筆」のひとつに(歴史社会学者・作家)の肩書きで田中ひかる氏が「りんと直美、道なき道を行け!」という題で寄稿されたエッセイを読み終えた。

朝ドラの字幕では紹介されていたが「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語」の著者であり、私は先入観でてっきり男性と思っていたが、今般初めて女性であることを知り、「女性たちが切り開いた歴史に光を当てる」という志向に納得するところがある。

「大関和物語」を書き始めたのは、コロナ禍で感染の危険にさらされながらも懸命に働く看護師さんたちの姿をニュースで見ていて、日本におけるこの職業の始まりを知りたくなったからであるらしい。

このエッセイのなかで番組鑑賞に資すると思われる内容をピックアップすると以下の通り。

・大関和を「りん」、大関和と一緒に看護学校を卒業してその後も一緒に働いた鈴木雅を「直美」のモチーフとして二人が世の中の理不尽を相手にしながら看護婦として奮闘する姿を描く。

・大関和の性格は(ドラマの)主人公向きではなかった。感情的で直ぐに大泣きし、ついた渾名はナイチンゲールをもじった「泣キチン蛙」報酬は二の次でひたすら患者に尽くす。

・著者は日頃から看護師さんの働き方改革が必要と思っていて、和の働き方を是としたくなかった。それで鈴木雅を相棒として描き、理性的で涙を流さず見返りを求めず働こうとする和に「それでは女性の経済的自立という目的から外れてしまう」といさめる役割を担ってもらった。

・和について調べ、書き続けるうちに、彼女は確かに感情的な「泣キチン蛙」だけれど、その涙は"誰か"や "世の中"を思うあまり流したものだとわかり、当初の「主人公には向かない」という考えをあらためた。

・りんと直美よ、患者のため、世の中のため、そして自分のために、道なき道を行け!

短いエッセイだが、これを読んだお蔭で朝ドラがより身近で楽しめるようになった気がしている。

◉今日の一句

ベランダにアブラゼミが転がり落ちて鳴き声をあげているのに気付いたが、ガラス窓を隔てよくみると、それを狙ってイソヒヨドリの幼鳥(?)が襲いかかろうと戦闘モードに入っている。

イソヒヨドリも私が見ているのがわかったらしく、一瞬目を合わせて躊躇したものの気を取り直し、素早くセミを咥えそのまま飛び去った。

 

生きぬとて蝉食む野鳥(とり)の哀しけれ

 

短時間の内なのでこれが精一杯

狙いをつけて

写している私に気付いた、どうしよう?

思い切って襲い咥えた、すぐさま逃げる。