「太平洋戦争秘史 周辺国・植民地から見た日本の戦争」

山崎雅弘著「太平洋戦争秘史」朝日新聞出版刊をようやく読み終えた。「秘史」とあるので先の戦争について偏った立場からの見解が示されるのではと多少身構えて読み始めたがその心配は杞憂で、広範囲に渡る中立的な内容を時間をかけてじっくり読ませて貰った。

 

副題に「周辺国・植民地からみた日本の戦争」とあるように太平洋戦争の影響を直接、間接に受けた諸国、・仏領インドシナ(現ベトナムラオスカンボジア)・英領マラヤ(現マレーシア)・英領シンガポール・米領フィリピン・蘭領東インド(現インドネシア)・英領ビルマ(現ミャンマー)・英領インド・英租借地香港・独立国タイ・独立国モンゴル・英連邦構成国オーストラリア、ニュージーランド、カナダが取りあげられている。

従来太平洋戦争を振り返る場合、米、英、蘭、中、ソなどの大国間の政治軍事関係が大半であったがこの本は東南アジアなど周辺国各々に細かく光を当てその実態を詳述し日本の過ちが読者に自然に理解されるようになっている。

私は現役時代かなりの時を東南アジアなどとの仕事に費やして来たが、その折に事前に各国と日本の太平洋戦争に於ける経緯を勉強したつもりでいたが、この本を読んでみてその理解は甚だ不充分であったと少し反省している。

「やった者は直ぐ忘れるがやられた者は決して忘れない」という言葉があるが、自虐的になる必要はないが、事実を直視してその上に立って国際社会と互換性のある認識を持つことの必要性を強く感じさせる本である。

各国の関係史で知り得たことはあまりに多くここでは詳細は避けるが、私自身いちばん深く考えさせられたのは戦争の初期段階で多くの国や地域を軍事的に占領した日本が一部を除き強圧的な民政で失敗し民心の離反を招いているという事実である。

この事はこれからの日本が否応なく考えざるを得ない移民問題などに向き合う上で大切な歴史から得られた知恵のひとつかもしれない。

何れにせよ良い本に巡りあった気がしている。

🔘今日の一句

 

ビル街に農事想わす走り梅雨

 

🔘施設の庭にある一本の柿の木、花からの実りへの過渡期を迎えているが木の大きさの割に実るのが少ないような気がする。立派なガクが目立つ。

 

 

放談会と園芸サークル

昨日は住んでる施設の行事に午前と午後で連続参加し比較的忙しい一日だった。

①午前、園芸サークル、本来の活動日は来週の日曜日の予定だったが苗の入手の関係で急きょ設定された。

・キュウリ10本の苗を植え付け

・ゴーヤ6本の苗を植え付け

ポーチュラカの花の苗

②午後 目先の色々な課題や問題新しい知識などを有志の少人数で話し合う放談会の月一回の定例会で、今回は私の当番に当たってしまった。テーマは前回の出席者の希望で日本の財政特に債務問題。

最新の日本の債務額を調べようと財務省のホームページに入ったところ「財政学習教材」として「日本の財政を考えよう」と題した令和6年4月発行の15ページの資料を見つけ、ほぼ自分の考えにも合致しておりこれをコピーして説明することにした。

その骨子は

・現在までの日本の債務総額は、1105兆円一人当たりに換算すると901万円/人となる。

GDP 当たりの借金比率はG 7(先進7ヶ国)のなかで最悪で概ね他の国の2倍以上である。

・国の歳出のなかで社会保障の占める割合を2024年度では33.6%を占め特に高齢化の影響による費用増大が顕著である。その為将来へ向けた課題への歳出が社会保障に比べて少ない。

・2024年度の歳入に占める国債の割合は31.0%を占めている。

・税の内最も大きいのは消費税で、所得税法人税と続く。

・国は2025年度にプライマリーバランス基礎的財政収支国債部分を除いた歳入歳出のバランス)を黒字にする目標を掲げているが2024年度予算では8兆円の歳入不足が有り目標達成は難しいのではないか。

・この状態では将来世代への負担の先送りや大きな災害などの有事に対応するゆとりが無くなってしまう。

🔘この問題については色々な議論や見方があるが、優先度の高い課題であることは間違いないように思われる。

🔘今日の一句

 

外来の種(しゅ)にも均しく若葉風

 

🔘フリージアラクサヒメヒオウギ・姫緋扇)

 

高塚山(たかつかやま)ハイキングと徳川道(とくがわみち)

昨日は住んでる施設のハイキング企画で、北へ2~3kmの近場にある標高186mの高塚山へ行って来た。

14名の参加でスタッフさん3名も入れて総勢17名、登山口まではバスの往復でトータルの歩行距離は5kmくらい、途中ローゼンファームカフェという店の仕出し弁当を食べる休憩も入れて、ドア~ドア約4時間半の無理の無い設定であった。

最近、低山登りにご無沙汰しているので、足慣らしと思い参加させて貰ったのだが、私にとって思わぬ嬉しい収穫が得られたハイキングになった。

山の出口に降り立ったところコース説明の看板が有り、どうやら我々が通って来た道は「徳川道」と名付けられた古い道の一部であったらしいことがわかった。

その名前に興味が湧いて帰宅後色々調べて見ると、今まで知らなかった神戸の歴史の一端に繋がっていることがわかってきた。

徳川道」は当時正式には「西国往還付替道(さいごくおうかんつけかえみち)」と呼ばれたもので、その由来は幕末の慶応3年(1867)12月7日の兵庫開港に当たり外国人居留地を港に隣接して設けることになったことに遡る。

その居留地は海沿いの西国街道(旧山陽道)に面しており参勤交代など武士の往来も頻繁であり、攘夷排外思想が盛んな折から不測の事態が予測された。

(例えば文久2年(1862)には、薩摩藩の行列を横切った英国人が藩士に斬殺された生麦事件があり薩英戦争の原因になった)

この為幕府は開港までの5ヶ月弱の突貫工事で、居留地を迂回する道を完成させることを計画しやり遂げた。

その道は、現在の東灘区と灘区の境界に当たる石屋川の西側の西国街道を起点にして摩耶山(まやさん)、再度山(ふたたびさん)の北側を通り西へ向かい、高塚山などを経由して明石の大蔵谷で西国街道に再びつながる全長34kmの付け替え道であった。

然し開港の僅か2日後「王政復古の大号令」が発せられ維新の激動に直面すると共に、翌慶応4年(1868)には居留地付近のみを迂回する公道が新たに作られ「西国往還付替道」は僅か数ヶ月で廃止され「徳川道」という取って付けたような名前が残ったようである。

我々は150年以上の時を経てこの涙ぐましい突貫工事の跡を知らずに歩いたことになる。歴史を追いかけていると時折このような思いがけない出逢いに遭遇することがある。

🔘頂上展望台から

コース途中の景色

途中の植物

ホタルブクロ

イヌビワ

イタチハギ

ヤマボウシ

ヤマアジサイ

スイカズラ

ハンノキ

ハコネウツギ

オオキンケイギク

🔘今日の一句

 

郷土史を刻む小道や青葉山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「教科書には書かれていない江戸時代」と長州藩士・長井雅楽(うた)の切腹

山本博文著「教科書には書かれていない江戸時代」東京書籍刊 を読み終えた。

著者は東大史料編纂所の教授で中学や高校の歴史教科書の編集委員もされており、「あとがき」にこの本のことを、教科書は通説として認められている学説を採用することが一般的ななかで、教科書には採用されなかった最近の知見を織り込んだ一般向けの文章のなかから江戸時代のあれこれを収録したと書かれている。

この中に江戸時代の武士の切腹の事例が報告され、学問に励んだことが認められ財政再建策の立案を命ぜられた会津藩の武士の事例が出ている。

彼は藩札の発行を提案、承認され実行したが藩内に偽札が横行し混乱、「不届き至極」と総括され切腹を命ぜられた。

上席に登用され自分の主張が実現できるという場合、もし失敗したときは自分が腹を切って責任を取らなければならない社会が江戸時代の武家社会であり、私の追いかけている幕末の長州藩でも全くこれに似た悲惨な事例がある。

嘉永6年(1853)ペリー来航を起点とする幕末の激動期、朝廷、幕府、各藩其々にその方針を巡って揺れ動いた。

安政の大獄桜田門外の変を経た文久元年(1861)長州藩士・長井雅楽は藩主に「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」を上申、藩論として取りあげられ朝廷や幕府にも入説し、朝廷と幕府の融和を図ろうとする公武合体派から歓迎された。

その後朝廷、幕府とも公武合体派が勢いを失うと長州藩内でも松下村塾系の勢いが増して尊皇攘夷派が権力を握り長井の責任を追及、以前は支持していた藩主より一転して切腹の命が下り慫慂(しょうよう)として命に服した。

辞世

君がため捨つる命は惜しからで唯思はるる国の行く末

航海遠略策とは、以下のように時代を先取りしたような構想であった。

「既に諸外国と締結した条約はそのままに朝廷幕府が和し積極的に世界と通商航海して国力を上げ、その後に諸外国に対抗しようとする考えで、条約を破棄して尊皇攘夷を進めようとする急進的な立場からは目の敵にされた」

🔘岩倉具視なども長井雅楽の人物を高く評価しているが、長州藩ではこの時期他にも多くの人材が志半ばで倒れている。

🔘今日の一句

 

家移りの海見ゆ街に夏は来ぬ

 

🔘施設の庭、チェリーセージ

 

映画「ハイジ アルプスの物語」/有馬温泉

NHKBS プレミアムシネマで放送された2015年のスイスとドイツの合作映画「ハイジ アルプスの物語」を録画していたがようやく観終わった。

プレミアムシネマでは今まで字幕版ばかり観て来たが、今回初めての吹き替え版であり最初はびっくりしてしまったが、内容がファミリー向けなので子供にも視聴しやすいようにとの配慮だなと直ぐに納得した。

云うまでもなく有名な児童文学の「アルプスの少女ハイジ」を原作にした物語だが、私はこの本もアニメもじっくり見たことがなかったので、この映画のお蔭で大筋のストーリーを理解したが、この映画では原作の前半部分がかなり割愛されているようである。

然し大人が観ても見応えがあり、ハイジが自分の希望を押さえて(押さえられて)ホームシックにかかる場面、クララの祖母の配慮で教育を受けることに踏み出す場面、大人の配慮でアルプスに戻ることが出来ておじいさんと再会する場面、またアルプスの生活で歩けなかったクララが立てるまでに回復する場面等々不覚にも涙が出てしまった。

最初は頑なであったがハイジと打ち解け可愛がるおじいさん役のブルーノ・ガンツという俳優に、何故かどこかで出逢っているような気がして調べて見ると、以前観たことがある2004年の映画「ヒトラー~最期の12日間~」のヒトラー役であったことがわかり、鼻の辺りのイメージが繋がり、まだまだ記憶力は確かだなと自分で納得してしまった。

ハイジが今まで知らなかった文字を自分で覚えていこうとするシーンなどは、子供にも是非観て貰いたい気がする。

🔘倉敷に住む娘が久しぶりに様子を見に来たので急きょ近くの有馬温泉にカーナビを頼りに三人で泊まりに行って来た。「兵衛向陽閣」という旅館に泊まったのだが、珍しい兵衛(ひょうえ)という言葉に特別興味があった。

兵衛とは律令制の官職で朝廷の武官職である左兵衛府右兵衛府に由来する言葉であり、従業員の方に聞くと有馬に頻繁に訪れていた豊臣秀吉が兵士の湯治をすることを前提に兵衛という名乗りを許したという話をしてくれた。

ホームページを見ると他にも諸説有る古くからの旅館らしい。

🔘有馬温泉から標高931mの六甲山ロープウェイに初めて乗ってみた。生憎神戸方向はもやがかかっているような感じで見通しが良くない。

対向するロープウェイ、山の緑が深く濃い

神戸港六甲アイランド方向、左部分を拡大すると船腹にお馴染みの太陽マークを付けたフェリー・サンフラワー号が停泊しているのが見える

芦屋から大阪湾を介して大阪夢洲南港方向

北の三田市方向

六甲山のヤマツツジ

🔘今日の一句

 

月見草昼夜違(たが)へて雨上がる

園芸サークルとカラオケ

昨日の日曜日は午前と午後で二つの行事が重なる忙しい一日だった。

①園芸サークルの活動日

今日は定例の活動日で雨の降りだす前に以下の作業が行われた。

スナップエンドウ、実りを終えた本体と、ネット、支柱などを撤去整理する。

・ジャガイモの土寄せと化成肥料の追肥、ジャガイモは上に伸びる茎に付いて行くので成長に従い土を被せていかないとジャガイモが土の表面から顔を出し、緑色のソラニンという毒素が形成され食べられなくなる。

全体に茎の成長が細く少し心配している。

・トウモロコシとオクラの種をポットに種撒き

・花の畑の整理、これはハーブの一種でカモミールというらしく、これを紅茶に入れるとリラックス効果があるらしい。

🔘最近、季節がら天候が頻繁にかわり雨風も強い日があり畑の野菜がダメージを受けないか少し心配している。

②カラオケ会

最近、同年代が集まり定期的に施設のカラオケルームでの少人数の集まりがある。私は現役時代歌とは無縁の生活を送っていたが、リタイア後同期会などで唄う必要から少しずつ練習を始め、この会にも出来るだけ参加させてもらうようにしている。

昨日の参加者は唄い手5人に聞き手が3名、懐メロ、青春歌謡、演歌、等々幅広いジャンルで盛りあがったが、私は同期会で唄う予定の中島みゆき「時代」や都はるみ小樽運河」「古都逍遥」など5曲を唄わせて貰った。

最後は聞き手も参戦されて今後メンバーが増えそうな気がしている。

🔘今日の一句

 

郷土史に刻(とき)を忘れて夏灯(なつともし)

 

🔘健康公園のチガヤ(千萱)穂の部分はこれから徐々に白く変化していく筈である。

「秀吉の朝鮮侵略と民衆」

北島万次著「秀吉の朝鮮侵略と民衆」岩波新書 刊を読み終えた。

日本の戦国動乱に終止符を打った豊臣秀吉が、天正20年(1592)から慶長3年(1598)までの間に2度に分けて行なった朝鮮への出兵は、日本と朝鮮半島との間の大きな負の歴史のひとつである。

私はこの出兵に従軍した毛利氏や一族の厚狭毛利家を追いかけている関係もあり、この事の概要は把握していたが、この本によって戦乱戦闘の経過や影響をより深く理解出来た気がする。

本の前半はこの戦乱のアウトラインの記述が占めているが、後半部に特徴があり表題に「民衆」という表現があるように日本、朝鮮双方の民衆がこの戦乱によって受けた苦難が当時の史料を元に記される。

朝鮮出兵で日本側に大きな打撃を与えたものは朝鮮の宗主国中国・明の援軍派遣と、朝鮮の英雄・李舜臣(りしゅんしん/イ・スンシン)が指揮する朝鮮水軍の活躍であった。

著者はこの名将・李舜臣の備忘録である「乱中日記」をひもとき、この中に記された海戦の計画や経緯、諸将や兵卒の動き、非戦闘員である船漕ぎや船大工、更には降倭(こうわ)と呼ばれる日本側からの投降将兵や陣夫などの様子も明らかにしている。

特に降倭については千人規模の部隊を率いて投降し戦後も朝鮮王朝で重く用いられた史上有名な沙也可(さやか)と呼ばれたような武将が居た反面、北方民族対策で使い捨てにされたものなどの記述には身につまされるものがある。

秀吉の死後豊臣政権が崩壊する原因のひとつとしてこの朝鮮出兵の影響を挙げられることが多いが、従軍諸将や兵卒の苦難、負担の大きさに対して報奨の無さ、夫卒や陣夫、水主(かこ)として動員された農民や漁民への非道な酷使などを見ると政権の崩壊が必然と思わせるものがある。

朝鮮側の民衆の苦難も凄まじいものがあり日本側に捕まり連行されたものが奴隷として転売されたり、生き残るために陶工として身を立てたりする例がある。

有田焼、薩摩焼唐津焼萩焼など西日本の陶磁器の歴史はこのときに日本軍の大名家に連行された陶工に始まった例が多い。

また秀吉は日本の従軍将兵に対して敵を討ち取った場合、大将の場合は首を、兵卒の場合は鼻を削いで戦功の証とするよう指示した。このため非戦闘員であるものまで多数の鼻切りの犠牲が出たといわれる。

元々秀吉は明国を征服しようという目的があり、その道案内を朝鮮に求めその交渉決裂が朝鮮への出兵になったと云われる。秀吉の前半生は輝きに満ちているが、後半生は甚だしく暗いものがあり豊臣の終焉と徳川への政権交代は必然であったと思わざるを得ない。

🔘今日の一句

 

一握の蚯蚓抱えて川釣りへ

 

🔘施設内のクレマチス