中断中の独り言/蝉の羽化

昨日は住んでいる施設の有志で近くの健康公園で蝉の羽化を観察する会に参加させて貰った。

数年前にも観察したことがあったらしく、予め目星を付けた公園のシナノキ(科の木)を午後8時頃から観察した。

事前に確認したところ確かに蝉の脱け殻(空蝉)が沢山残されておりその事は昨日のこのブログに一部の写真を載せた。

幸いにも上手く羽化に遭遇出来て、以下にその写真を載せる。

これは画像検索ではアブラゼミのようで、脱け殻に泥などの付着もなく検索結果を裏付けている。

今朝8時頃確認すると蝉は完全に飛び去っていて、脱け殻のみが残されていた。やはり爪先は葉を貫いて蝉の羽化の動きをしっかり支え、サーカスのような動きにもしっかり対応出来ていることがわかる。

 

揺れる葉に爪刺し堪えて蝉生る

 

当日、このシナノキには他に二匹の羽化が確認出来た。

こちらは特徴的なクマゼミ、画像検索でも裏付けられた。

🔘蝉の羽化は小学生の頃一度見たことがあるがそれ以来の貴重な体験となった。

何故シナノキに蝉が集まるのかよく分からないが私なりの推測を挙げておくと、

・この木の周りは草がいつも生えて土が湿り気を帯びている。

シナノキの樹皮は古来優れた繊維素材として広く活用されていた歴史があり、樹皮(内皮)や木との間など、蝉が卵を産み付ける条件が良いのかも知れない。

🔘歴史好きから余談をひとつ、長野県の旧国名信濃国(しなののくに)は古事記には科野国と書かれシナノキを産するところにその由来があると云われる。

中断中の俳句②と最近の写真

①最近詠んだ俳句

 

蟻の眼に吾(あ)は木偶(でく)なるか恐竜か

 

伝令は小蟻蹴散らし御注進

 

泥まとひ空蝉語る地下五年

 

揺れる葉に爪刺し堪えて蝉生る

 

腕の斑点(しみ)炎暑のタイを刻みおり

 

露台の夜中島みゆき「麦の唄」

 

炎昼(えんちゅう)や針と降り来る陽の光

 

梅雨出水(つゆでみづ)濁りは海へ青を裂く

 

肥前なる小城羊羹(おぎようかん)の暑気払

 

夏雲は紀淡に沸きて六甲へ

 

②最近の写真

いよいよ蝉の出番

揺れる葉にしがみついて羽化する蝉は、葉を抱き抱えると共に爪を葉に刺し通して堪えている。葉を裏返して見ると三つの爪先が裏まで覗いている。

一般にニイニイゼミは湿った土を好み、習性もあって泥が付着しやすいといわれるが、同じ木(シナノキ)で羽化した脱け殻(空蝉・うつせみ)であってもよく見てみると確かに泥の付き方に差がある。(三つの内、上の空蝉は泥が殆ど付いていないが下へいくほど泥だらけ)アブラゼミは殆ど泥が付いていない。

健康公園のシナノキの根元、地中から蝉が這い出た穴直径10~15mm位

ベランダから見た淡路島の花火

ベランダからの7月21日の満月

施設の庭、柿の実が3cm位になって来た、然し去年と同じく実の数が少なすぎる。子供の頃の柿の木はどの木も溢れる程実を付けていた。

 

施設の庭、ノウゼンカズラ

ワスレグサ

 

 

 

中断中の俳句と庭の花

🔘中断中に詠んだ12句を記録しておきます。

 

何故畠(はた)に巣を作るとや蟻に問ふ

 

空洞(うろ)全て蟻の巣なりと樹の嘆き

 

樹の空洞(うろ)へ伝令の蟻走り込む

 

遥かなる六年(むとせ)の記憶極暑(ごくしょ)タイ

 

極暑の夜(よ)街の灯りも熱まとう

 

陽光が皮膚を貫く極暑かな

 

タイの軒功徳(くどく)の水と釣忍(つりしのぶ) 

 

釣忍苔は大地に棲みたしと

揺れ厭い地に棲みたしと釣忍

 

離陸機は正南風(まはえ)貫き吹き上がる

 

御食国(みけつくに)鱧道中は三世代

 

虫を追ひ三次曲線夏燕

 

厚切りのパン薄焼けて梅雨曇り

 

🔘施設の庭の花

セイヨウニンジンボク(西洋人参木)

ムラサキクンシラン(紫君子蘭)・アガパンサス

キキョウ(桔梗)

ヘメロカリス・忘れ草

7月句会/お知らせ

今日は住んでいる施設の定例の句会、兼題は「父の日」、私は兼題の1句を含み以下の5句を出した。

①父の日や娘(こ)選びしシャツ齢(よはひ)告げ

毎年娘からシャツが贈られて来るが、今までどちらかというと若く見られるようなものが多かった気がするが、今年は年齢相当と思えるものが来て否応なく年齢を意識したことを詠んだ。

②多様性育む草木青葉山

近くの県有林を歩くと名前も知らない草木が種類沢山生え競っていて、人よりも自然の方がはるかに多様性を実践していると思えたことを詠んだ。

③夜半(よは)嵐朝凪ぐ海は知らぬ気(げ)に

夜の激しい雨風にかかわらず一転して朝の穏やかな海の情景を見て詠んだ。

④夏の潮紀淡と明石せめぎあふ

ベランダから大阪湾方向を見ると大抵、海の色が2つに別れている。紀淡海峡から出入りする潮と、明石海峡を通り瀬戸内海を出入りする潮との出合いが色の違いに出ていると思えることを詠んだ。

⑤抜歯終え目にも口にも青葉沁む

最近、やむを得ず歯を抜いて歯医者からの帰り道、口を押さえながら目にした丘の青葉の風景を詠んだ。

・結果は③の句に2名の方が特選に入れて貰い、また並選も他に1名あった。

・④の句に並選が2名、①と②の句にそれぞれ1名ずつ入れて貰った。

🔘③の句は期待以上に良い評価であったが、①と⑤の句についてはもう少し違った言葉表現があったのではと推敲の不足を感じている。

🔘現在このブログの記事を元に2冊目の本を出そうと取り組んでいますが、少し作業が遅れ気味で丁度山場に差し掛かっており、この為当面の間このブログを休ませて貰おうと思っています。折角読んで頂いている皆さんには大変申し訳ありませんがどうぞよろしくお願いします。

🔘今日の一句

 

釣忍苔は大地に棲みたしと

 

 

🔘施設の庭、百合の仲間

ユニクロ40年

日経新聞のビジネス記事に「ユニクロ40年止まらぬ進化」という見出しで今月、誕生から40年を迎えた(株)ファーストリテイリングが運営する「ユニクロ」の興味ある記事が載っている。

ユニクロは周知のようにUNIQUE CLOTHING WAREHOUSE(ユニーク・独自な衣服の倉庫)からとられた名称で、私が今から30数年前に初めて奈良・学園前で出会ったユニクロはまさしく斬新な倉庫をイメージした今まで見たことがない店舗だった。

ユニクロの創業者・柳井正氏がスタートした実家の紳士服店は私の生まれた街・厚狭の東隣・山口県宇部市にあり、そこを原点に「カジュアルウエアの倉庫」をコンセプトに1984年6月ユニクロ1号店を広島にオープンした。

以降数字から読み解く軌跡と、小売業今後の課題などを記事を元に私の興味本意で整理すると、

・当初は他社から買い集めた服を所狭しと並べたがわずか2年でこれを自己否定、自社で服をデザインして生産委託するSPA (製造小売)と呼ばれる現在の方法へ舵を切る。

・徐々に東へと店舗網を拡げて行くが、東京都心に進出出来たのは1998年、その3年後から英国、中国、米国とたて続けに海外進出を果たし、日本一を中間目標に、世界一というゴールに向かう工程表を作った。

ユニクロは規模が3倍になるごとに10年がかりでの戦略転換を図ってきた。

2003年売上高約3000億円だったが、海外の成功が寄与してそれから10年で初めて1兆円を突破した。

更に10年経った現在、売上高は3兆円を超えようとしている。

これから次の目標である10兆円を達成するための仕掛けは「情報小売業」と呼ぶ新たなビジネスモデルへの進化で、異業種(ITなど)の力を借りて需要予測の精度高めたりデータと店舗の更なる融合を図る。

・次の10年を占う上で欠かせないのがポスト柳井体制でキーワードになるのが「チーム経営」である。

🔘日本の失われた30年、少子高齢化、コロナ禍等々数え上げたらキリが無い逆風のなかで、日本の得意とする製造業ではない、小売業をベースにした日本の企業が、世界のアパレルへ飛躍出来たことは本当に驚くべきことだろうと思われる。

世界で戦うことの難しさは多少は知る立場にあり、これからの10年で3倍という目標は桁違いの困難さが予測されるが、日本の代表として希望の星で有り続けて欲しいと思っている。

🔘今日の一句

 

チェンマイの旅路迎へて釣忍 

 

🔘施設の周辺のネズミモチの木に花が咲き、ベランダからも見えるので坂道を降りて撮ってきた。

体の大きさから熊ん蜂と思われるが熱心に蜜を採りに来ている

「周縁の三国志」

関尾史郎著「周縁の三国志東方書店刊を読み終えた。

副題が「非漢族にとっての三国時代」とあり、中国で秦の始皇帝から漢王朝まで約450年続いた統一が瓦解して出現した三国時代、魏(ぎ・曹氏)・蜀(しょく・劉氏)・呉(ご・孫氏)の周辺居住民族と三国の関係を膨大な文献や史書を読み込み論じたものである。

三国は各々の対立関係から周縁(周辺)の勢力との関係強化が基本路線であり、周縁の民族種族のなかにも自民族が生き残るためにこれを期待する動きがあった。

NHKBSのドキュメンタリーに「中国秘境 謎の民」というシリーズ番組があり中国周縁の秘境で暮らす少数民族の歴史や暮らしが記録放送され私は欠かさず観ているが、この本に書かれる幾つかはその謎の民のルーツと言えるものではないかと思われるれる。

ここで取りあげられている非漢族は烏桓(うがん)、鮮卑(せんぴ)、朝鮮、越族(えつ族)、氐(てい)、倭(わ・日本)などだが、字数の関係からこのうちの倭について少し触れておきたい。

当時の倭を代表する邪馬台国の女王・卑弥呼が三国のうちの魏から「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を得て冊封(さくほう・臣下に爵位や名号を与える)されたことは、周知の通り「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録されているが、この事について決定的な言葉は避けつつ以下のような論議が紹介されている。

卑弥呼の使者・難升米等は当時新たに魏の領土となっていた朝鮮半島帯方郡に至りそこから皇帝への謁見が可能になり都・洛陽に至った。

(最初から皇帝に謁見することを考えていたとすると記録に残る献上品が貧弱過ぎる?)

・魏は、地理的にみて敵対する呉や不安定な朝鮮半島の背後に位置すると考える倭を引き付けておく必要があった。

🔘この本の中では殆ど卑弥呼側の事情が取りあげられてないが、一般的には卑弥呼としては最大の敵・狗奴国(くなこく)の王・卑弥弓呼(ひみここ)に対抗する為や、邪馬台国内部の統制強化の為にも魏の後ろ楯が必要だったとされている。

🔘中国の少数民族については2021年10月20日のこのブログに「中国少数民族の一断面」として書いたことがある。

🔘今日の一句

 

夜半の強風(かぜ)朝凪ぐ海は知らぬ気に

 

🔘健康公園、ねむの木の花が咲き始めた。

ふるさと厚狭・沓(くつ)古墳

山口県に住む同級生から、山陽小野田市歴史民俗資料館で開催された講演会「山陽小野田の古墳と地域間交流」を聴講したとのことで、その折の資料コピーを送って頂いた。

山口県埋蔵文化財センターの職員の方が講師で、このブログでも何回か書いてきた厚狭の遺跡、長光寺山古墳や妙徳寺山古墳などを取りあげ、出土品や石室内の構造などの共通項から山口県内の他の遺跡と同様に、徐々に九州地域の影響を受けているとの講演骨子である。

山口県はその地理的条件から、現代に至るまで九州や朝鮮半島の色々な影響を受ける土地柄であり、ある意味当然のことかもしれない。

その資料の一部に私にとって懐かしい円墳の「沓古墳」が取りあげられていて、このブログに書かせて貰うことにした。

沓古墳は私の生まれた村・鴨庄の北隣にあり、鴨庄から沓地区へ抜ける道がJR 美祢線と交差する踏み切りの北約100mの田の中にあり、私の子供時代には田畑の耕作により墳丘周囲が削られて、封土も流失、石組の一部が露出していて荒れ放題という印象だった。

私の子供時代の記憶と合致する、昭和45年山陽町教育委員会発行「山陽史話一」に載る荒れ放題の沓古墳の写真、

この直ぐそばにこのブログでも取りあげたことがある厚狭川から取水する寝太郎堰(大井手)があり、この両者を結び付けて想像を掻き立てる風景になっていて、資料にも関連の記載があるが具体的な裏付けが有る訳ではない。

資料中に沓古墳が発掘調査されたとの記載があり埋蔵文化財センターに問い合わせし、平成6年(1994)9月3週間かけて行われたその折の短い記録を送って貰った。その要旨は、

・調査前の状態は古墳の遺存状態は悪いと予測された。水田が残存する際まで迫っておりその規模や本来の形状は不明(私の子供時代の記憶そのもの)。

・石室の多くは破壊されているが床面はよく残っていて、片袖式の横穴式石室である。

・出土遺物は銅釧(どうくしろ)、鉄製柄(つか)と鍔(つば)、多数の鉄鏃(やじり)、須恵器片

・銅釧は貴重なもので銅製の腕輪、直径7.3cm、周縁に刻み目、同じものが九州北部や朝鮮半島南部から多く出土しており、これらの地域との関わりが想定される。

・石室の形態、遺物などから沓古墳は古墳時代後期・6世紀頃の構築と考えられる。(長光寺山古墳、妙徳寺山古墳の構築から約150年~200年経過後)

発掘を終えて復元され現在は地域の教材にも使われているとのことである。

🔘古墳の被葬者の階層は一般に、古墳の形状、前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の順とその大きさによって決まるとされているが、そこからみるとこの古墳に葬られた人物は、この地域の村長(むらおさ)クラスではないかと想像される。

同級生に撮って貰った復元された現在の写真

🔘この沓古墳には、朝鮮半島百済(くだら)の琳聖太子(りんしょうたいし)が日本に亡命し、その後を追って来日した母親の聖明王妃(せいめいおうひ)が、この地で崩御されたその陵であるとの伝説があり、また厚狭鴨神社発祥の地とされる。

この伝説の背景には戦国時代に山口を地盤に西日本の雄となった大内氏の祖が琳聖太子だとする作られた家系伝説があり、この事を2021年7月11日と13日の2回「ふるさと厚狭・鴨神社と大内氏の伝説」として書いたことがある。

🔘余談ながら、現在沓と書く地名はもともと久津と考えられ、津の意味からも厚狭川河川交通の要地であったことを示している。

🔘今日の一句

 

菜園のトマト気になる強風(かぜ)の夜半

🔘健康公園の草むら、ネジバナ(捩花)名は体を表すというがこの言葉にピッタリの花、