ミチクサ先生・「文学というもんは何の役に立つんかね?」

日経新聞に連載中の作家・伊集院静さんが、夏目漱石を主人公に書いている小説「ミチクサ先生」では、親友・正岡子規が既に亡くなり、漱石は丁度、政府派遣の英国留学を終えて帰国した。

家族の出迎えを受けるが、東京新橋駅へ向かう汽車中で岳父(がくふ・妻の父)から素直で真剣な質問を受ける。
「文学というもんは、特に英文学は何の役に立つんかね?」

この質問:「○○は何の役に立つ?」は文学に限らずあらゆる分野の学びや活動に共通のもので、これにどう向き合うか色々考えたりした人が私を含めて多いに違いない。

伊集院静さんは夏目漱石にどう答えさせるか、連載紙面をとても注目して2回読んでしまった。その答えにつながる部分を抜粋すると、

「岳父さん(おとうさん)、文学を学び、この文学を論じようとする時に、今、岳父さんのおっしゃった疑問がまずあるのです。私もそうでしたし、異国で学んだ最初がそれでした」

「書物を読みますと、あらゆる学問には必ず、その問いに似たものがあります。何の役に立つのかというのは、何のためにか、という問いと共通しています。しかしそれは言い方の違いであって、大切なのは答えです」

「今の私にはこう答えるしかありません」

「それは自分の発見です。~~~シェークスピアを二年間学びました。そうして、そこに登場する人たちの、悲しみ、喜びを自分のことに置きかえるようになりました。そこに、自分の悲しみ、喜びを感じることがありました。それが自分の発見のはじめでしょう」

無頼派とも云える伊集院静さんにしては、優等生に過ぎる答えを漱石に語らせている気がするが、確かに「自分の発見」は答えの一つかもしれない。

私の答えの一つは
「たまたま何かの役に立てばそれに越したことはありませんが、すぐに役に立たなくてもいいのです。それを学んだり知ること自体に価値があるのですから」

◎ジャガイモ畑のなかで小さく咲いている雑草の花
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評伝「毛利元就」と周南・鹿野の江良(えら)氏

4月8日のこの日記に書いたように岸田裕之著「毛利元就ミネルヴァ日本評伝選、を読み進めている。
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周防国(すおう・山口県)陶隆房(すえたかふさ・後の晴賢)は天文20年(1551)9月1日、主君大内義隆長門国(山口県)・大寧寺(たいねいじ)に討ち果たし、その後安芸国(広島県)にあった毛利元就を味方に引き入れるべく折衝が始まっていた。

この評伝のなかで、同年9月7日隆房奉行人(ぶぎょうにん)・江良房栄(えらふさひで)が当時安芸国国衆(くにしゅう:豪族)天野氏に宛てた書状が紹介されている。その概略は
・9月1日大寧寺大内義隆が自刃した。
大内氏の後継者として九州・大友氏から晴英を迎える。
・これらのことは安芸国衆連合の盟主・毛利元就から伝えられる。

江良氏は大内氏重臣の一人で陶氏の謀叛に加担したことが分かり、陶方でも中枢で重要な執行役を担っている。

実はこの評伝を読む少し前に、山口県周南市に住む同級生から、この江良氏の居館跡地に咲いている立派なしだれ桜の新聞記事を、LINEで送ってもらっていたので、その巡り合わせにビックリした。

江良房栄はその後、陶隆房に討たれ粛清される。

山口県下関市生まれの作家・古川薫さんの作品「毛利元就とその時代」では、江良房栄は陶氏と毛利氏が対立すると毛利方へ寝返ろうとするが、戦後の報償で折り合わなかった。
この為、毛利元就は陶方に江良氏裏切りの情報を流し、これを信じた陶隆房は江良房栄を急襲し自刃させたと書かれている。
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周南市ホームページにある、市が調査復元予測した地図を見ると、江良氏の居館は周南市鹿野地区にあり、ほぼ65m四方の広さで、土塁、堀で守られ三方に虎口(ここう:出入口)を持つ立派なものである。
また後背地には別に江良氏の持ち城・藤掛山城が有ったといわれる。

大内氏の山口居館からも近く、その時代には余程重きを置かれていたことがうかがえる。
大内氏に謀叛を起こした陶氏にとって、江良氏は煙たい存在であったのかも知れない。

ソメイヨシノが終り八重桜の時期になっている。近所の散歩道端、近くで見る方が八重桜の花びらがきれいに見える。
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ふるさと厚狭の惣社(そうしゃ)八幡宮

ミネルヴァ書房が発行しているミネルヴァ日本評伝選シリーズは吉川弘文館の発行する人物叢書(そうしょ)シリーズと並び、史料に裏付けられた伝記集として双璧と思われる。

その日本評伝選シリーズの一冊、「毛利元就/武威天下無双、下民憐憫の文徳は未だ」岸田裕之著を読み始めている。

毛利元就は主君大内義隆を討った陶晴賢と、中国地方の覇権をかけて弘治元年(1555)厳島合戦を戦い勝利、その後大内氏、陶氏の本拠地・防長2州(山口県)に攻め込み平定する。

毛利氏が防長両国を平定し、すみやかに実施した政策の一つに牢人米がある。大内氏旧臣を救済して民心の安定を図るため、一定の税を取り立てこれを支給する。

本のなかで、この政策を紹介する例として、長門国八幡宮(厚狭惣社八幡宮)大宮司・幡生右衛門尉(はたぶうえもんのじょう)は、毛利軍の防長進攻に当たって忠義が有ったので、牢人米免除を毛利家重臣筆頭・福原氏が認めたとする文書が紹介されている。

これを見て以前古本屋から購入した「厚狭惣社八幡宮文書の写し」や、「山陽町史資料編上巻」に所載の惣社八幡宮文書を見ていくと確かに同じものがあった。
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厚狭惣社八幡宮は厚狭の郡(こおり)地区、厚狭毛利家居館と厚狭川舟運の要地・下津(しもづ)の中間地点に位置し、昨年帰省して参加した「古地図を片手に、まちを歩こう/2020、10、5この日記参照」で下津・洞玄寺への道中で参道前を通ったが、時間の都合で本殿まで行けなかった。
参道前から本殿方向を見た写真
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「山陽町史」に書かれてある「寺院・神社の沿革」によると、惣社八幡宮鎌倉時代に厚狭の地頭(じとう)であった箱田広貞が、文治3年(1187)鎌倉・鶴岡八幡宮を板垣の津(現在の下津)に社(やしろ)を建てて勧請、社職にも補せられたがその後箱田氏が滅亡、大宮司職は幡生氏に移った。

大内氏の時代を経て毛利氏の時代、傘下の三沢氏が厚狭の給領主となると、それまでの社地を三沢氏居館に明け渡し現在地に移った。
その後も毛利氏の庇護(ひご)を受け寛永2年(1624)の検地では社領10石。

私の生まれた厚狭鴨庄は、惣社八幡宮のある地点から南北に遠く、云わば厚狭の端から端で、数年前にようやくその存在を知った。
それがこのように読書の過程で突然深く出会い、毛利氏の時代にもその存在感が確固としてあったことも分かった。
歴史を追いかけていると時折このような嬉しい時間に遭遇する。

◎我が家の車庫横の変わった形の花(名前?)
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「司馬遷(しばせん)」と「李陵(りりょう)」②

4月4日の続き

1942年に33歳の若さで亡くなった作家・中島敦の全集は全3巻で昭和51年(1976)筑摩書房から発行されている。
司馬遷と李陵2人の絶望状態からの生き方を書いて、遺作となった「李陵」は、第1巻に収録、旧かな使い、旧漢字で戦後生まれには大変読み辛いがこの機会しかないと思い何とか頑張って読み終えた。
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史実に即したうえで感情描写に作者の思いが入った2人の生涯は、凡そ次のように書かれている。

司馬遷
死より辛い、「恥」の刑・「宮刑」を受けた司馬遷は死ぬこともままならず、悩み苦しみ抜くが父の遺言でもあり刑を受ける前から始めていた歴史書の執筆活動に生きる意義
を見いだし、生涯をかけて史記を完成させる。

自分と同じ不遇に終ったもの、敗者、などにも目を向け、現実の生活では再び開かれる事のなかった口が、書かれた人物の言葉を借りて、烈々と火を吐き、泣き、或いは憂憤を発した。

稿を起こして14年、刑のわざわいにあって8年、史記は一通り出来上がった。
これに増補、推敲を重ねて数年が過ぎ、史記130巻、52万6千5百字が完成したのは武帝崩御に近い頃であった。

最後の筆を終えた後の司馬遷の気持ちを中島敦はこう表現している。
「深い溜息が腹の底から出た。~~~歓びがある筈なのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安の方が先に来た」

☆理不尽な刑を受けながらも「史記」を完成させたことで、司馬遷は「史聖」ともいわれるが、作家司馬遼太郎さんは司馬遷を深く尊敬し、[司馬遷に遼(はる)かに及ばず]との意味を込めてペンネームを司馬遼太郎とした。

②李陵
匈奴の捕虜となった李陵は、「隙を見て敗軍の責を償うに足る土産をもって漢に脱走する」事を心に決め匈奴の王「単于(ぜんう)」の誘いを固く断り続ける。
一方漢の都には、李陵が敵に寝返ったとの誤った情報が伝わる。これに怒った武帝は李陵の家族を族滅(ぞくめつ・一族皆殺し)処分にする。

この事を伝え聞いた李陵は遂に匈奴側に協力、単于の娘をめとり匈奴の一員となる。

その頃漢からの使者、「蘇武(そぶ)」が匈奴に勾留され、降伏を拒否して自死を図るが蘇生する。
その後も頑として匈奴への帰順を拒み、山野で生死をさ迷う暮らしを続け、遂に19年ぶりに漢に帰る機会を得る。

李陵は旧知でもある蘇武の一連の振る舞いを見て複雑な心境に陥るが、やがて李陵にも漢に帰る機会が訪れる。
しかし蘇武と違って自分は匈奴に協力した身であることを自覚して、中島敦は李陵にこう語らせる。「帰るのは易い。だが、又辱しめを見るだけのことではないか?如何?」

その後の李陵については何も記録がなく唯、匈奴の地で死んだと伝わる。

☆李陵は悲運で数奇な生を送ったが、このこと故に「史記」や「漢書」などの正史に名を遺すことに成った。

◎歩きの途中近所の軒先で見事なチューリップを見かけ撮らせてもらった。
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今週の新聞歌壇から

今週の日経新聞の歌壇で、身の回りの事と重なり、面白く共感した短歌2首に出会えた。

歌人穂村 弘さんの「選」から

「疲れ果て 入ったコメダの コーヒーが でかくって 愛 感じまくるよ」
山梨県 犬口マズルさん作

今朝歩いて行った、いつものコメダ珈琲店で、短歌と同じでっかいカップにいっぱいのブレンドコーヒーを飲んできた。
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コメダではコーヒーカップになみなみと注がれたコーヒーが定番になっているが、このたっぷり感が、誰かが疲れた時の癒しに成り得るのだと、つい納得しながら味わって来た。

私の場合、このコーヒーに新聞が加わることで癒しになっているのだが。


歌人三枝 昻之さんの「選」から

「夫よりも 先に朝刊 読み終へて  届きし時の 形に戻す」
横浜市 近江満里子さん作

下宿中の大学生の孫と相談し、日経電子版から紙の日経新聞に変えて一緒に読んでいる。
いつも私が先に読んで孫の机に置くのだが、コーヒーを飲みながら読んだり、興味ある記事があった場合など結構紙面がシワになったり、重ねの位置がずれてしまい畳むのに難儀する。

読み終えて孫の机に置く前の我が家昨日の新聞、最近机の上でトントンと何回かすることで、以前よりだいぶマシになったと思うがこの短歌のように「届きし時の 形に戻す」にはほど遠い。

まあ形が崩れてしまうのはじっくり読んだ証として何とか勘弁して欲しいものだ。
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◎近くの小学校の垣根から顔を出すのはマーガレット?アネモネ?それとも別の名?、
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黒澤映画の面白さの秘密

NHKBS・プレミアムシネマで黒澤明監督の「椿三十郎」をリメークした角川映画森田芳光監督の同名映画「椿三十郎」が放送され、あまり気が進まなかったものの、まあいいかくらいのつもりで録画し、放送からだいぶ時間が経ってから再生して観た。

椿三十郎が織田祐二、敵役(かたきやく)が豊川悦二の配役で、黒澤映画の三船敏郎仲代達矢の存在感には及ばないものの、ストーリーに引き込まれて一気に観終えてしまった。

リメイク版の冒頭、スタッフやキャストが表示される字幕で、この映画と黒澤映画のオリジナル版との唯一の共通点が脚本にあることが分かった。
黒澤明菊島隆三小国英雄の三氏である。

監督が変わり、白黒とカラーの違いで重厚感や臨場感は少し変わったが、ストーリー展開は同じ脚本を使っているためか、
・若侍たち、三十郎、敵の一味3者の知恵比べ
・敵の一味ながら若侍に共感する善良な侍の口上
・全体がキリキリするなかで、とてもおっとりした城代家老の奥方と娘の会話
・椿の花を味方への合図に使った一騒動  
等々その面白さは全く変わらず、色褪せて無いことがよく分かった。

常日頃はその有能さを、わざと鈍重(どんじゅう)な振る舞いに隠している馬面(うまずら)の城代家老を、オリジナル版では長い顔の伊藤雄之助さんが演じていたが、リメイク版ではこれも長い顔ではひけをとらない、藤田まことさんが演じて、脚本を尊重して見せているのには思わず笑ってしまった。

この映画を観て黒澤映画の面白さの秘密の一つが脚本にあることがよく理解できた。
この機会に少し黒澤映画の脚本を振り返ると、私の好きな「隠し砦の三悪人」「蜘蛛巣城」はこの3人に橋本忍氏を加えた4氏の共同、「七人の侍」は黒澤明橋本忍小国英雄3氏の共同作品だった。

これらの脚本家は、他にも多数の脚本を書いて色々な映画の字幕でお目にかかったことがある、当時の日本映画を代表する人達であり、複数の有能な人が共同で推敲(すいこう)を重ねた結晶が黒澤映画であることがよく分かった。

◎毎日の朝食でカルシウムを頑張って摂ろうと思い「ちりめんじゃこ」を食べている。
今朝ふと見るとじゃこの中に体長2cmのイカの子が混じっていた。
イカとちりめんじゃこを並べてみると、小さいが不思議と形が備わり、それぞれに自己主張と存在感を発している。
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「司馬遷(しばせん)」と「李陵(りりょう)」

NHKBSで「古代中国・よみがえる英雄伝説」という番組が連続して再放送されている。今回の「司馬遷武帝(ぶてい)~"史記"誕生秘話」は以前の放送を見のがしており、録画して観ることにした。

よく知られているように漢王朝武帝の時代、暦や歴史を記録する「太史令(たいしれい)」であった「司馬遷」が著した中国最古の史書史記」は、編年体といわれる年を追って出来事を記述する方式ではなく、人物主体の紀伝体と呼ばれる編さん叙述で、後の歴史書に決定的な影響を与えている。

史記は日本でも古くから読まれておりこの中から、「四面楚歌(しめんそか)」「遠交近攻」など数多くの4字熟語やことわざが生まれ現代にも生きて受け継がれている。

中国・漢の武帝(在位:紀元前141~前87)の時代は名前が表すように武力で周辺を圧し領土を拡げた。
当時の最大の敵は西域の遊牧騎馬民族国家「匈奴(きょうど)」で漢とは建国以来の争いが続いていた。

漢の騎都尉(きとい)という軍官であった「李陵」は武帝の命を受け、他の大将軍の遊撃部隊として5000人の歩兵を率いて西域に出撃し、数倍の匈奴騎兵部隊と連日善戦を続けるが兵力差が圧倒的で、ついに刀折れ矢尽きて気を失い捕虜となる。

都に李陵が生きて敵の捕虜になったことが伝わると、武帝は怒り百官にその罪を問うと、皆我が身かわいさから李陵の非を鳴らすなか、司馬遷は唯1人李陵を擁護して武帝に諫言(かんげん)する。

これに激怒した武帝司馬遷宮刑に処す。腐刑ともいわれ強制的に去勢される当時最も恥ずべき、精神的な死を意味する刑罰である。

戦前に若くして亡くなった作家・中島敦(なかじまあつし)に有名な「李陵」という遺作で代表作にもなる作品があり、この極限状態から、司馬遷と李陵のふたりがそれぞれどのように生きたかを描いている。

実は今から約半世紀前、若い頃に是非とも中島敦にチャレンジしようと「中島敦全集」を購入して読み始めたところ
旧仮名使い、旧漢字に圧倒されて途中で挫折してしまった。このTV番組を観て、この機会に「李陵」を読んでやろうと一念発起し書棚から引っ張り出してきた。

以下別の日に。

◎歩きの途中、桜の木の下で花びらに囲まれ小さく咲いているのは、図鑑と照合するとナガミヒナゲシと思われる。
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