「斎藤一(さいとうはじめ) 京都新選組四番隊組頭」

伊東成郞(いとうせいろう)著「斎藤一 京都新選組四番隊組頭」河出書房新社刊を読み終えた。

幕末の京都で存在感を放った新選組は、京都守護職会津候・松平容保(まつだいらかたもり)のもと、都の治安維持を担った佐幕を信条とする浪士集団で、衰退する側に立って身を挺して働いた姿から、歴史好きな歴女などから人気が高い。

一方勤王倒幕側に立った私の故郷の長州などからすると不倶戴天の敵であり、元治元年(1864)の池田屋事件では長州藩士の吉田稔麿(よしだとしまろ)、杉山松助等が殺され藩論が沸騰、京へ進軍し「禁門の変」を引き起こし朝敵となったことの元凶という位置付けである。

作家・司馬遼太郎が書いた小説「新選組血風録」は何度もTVドラマ化されているが、最も印象に残っているのは1965年頃に放送された最初のもので、主演の土方歳三役が栗塚旭、斎藤一役は既に亡くなられた左右田一平(そうだいっぺい)で、寡黙な凄腕剣士がとても似合っていた。

誠に余談ながらこの(そうだいっぺい)は当人が酒好きで「そうだ一杯やろう」からつけたと当時から云われていた。

著者は新選組研究家とのことで、新選組の創立から瓦解までの歴史をたどりつつ、創立以来のメンバーで、新選組の「誠」の旗と共に戦い明治まで生き抜いた、副長助勤四番隊組頭斎藤一の足跡を、証言録や史料を紐解き明らかにしていく。

斎藤一は私の現在地の傍、播磨国明石藩にルーツがあるらしく、何らかの理由で江戸に出て下級幕臣・御家人株を買った父親をもつ三子の内の末子、近藤勇の試衛館道場に出入りしたことで新選組創立メンバーと親交を結び上洛後新選組に加わる。

斎藤は一刀流などを学んだ剣の遣い手で、新選組では撃剣師範も兼ね、数々の証言から新選組での剣の技量では三本指に入り、永倉新八、沖田総司、斎藤一の名が出て来る。

斎藤は京での新選組活動(池田屋事件、禁門の変、油小路決闘、鳥羽伏見戦争etc)のほとんどに参画し、鳥羽伏見の敗戦で幕府軍が江戸に撤退するのに合わせて江戸へ退き、その後甲府や下総流山の戦いを経て、会津戦争に会津藩の支援部隊として新選組の生き残りを率いて参戦、会津戦争終結後姿を消す。

斎藤一の明治は藤田五郎と改名、警視庁職員「警部補」として出仕、西南戦争の鎮圧軍に参画奮戦中に銃創を受け療養の後帰京した。この時の功で勲章と勲七等を受け過去への雪辱を果たした。

余談ながら、戊辰戦争を旧幕府軍側で戦った士族の一部は、藤田五郎と同じく警視庁に奉職し西南戦争に従軍した。彼らは薩摩の抜刀隊と白兵戦となった折「戊辰の仇!」と叫んだと伝わる。

警視庁退職後会津人脈の縁から、東京高等師範学校付属の東京教育博物館職員として勤務した。

藤田五郎は大正4年(1915)9月28日数え年72歳、自宅床の間で正座したまま死去したとのことである。

長州人の目から見ても立派な生きざまである。

◉今日の一句

 

老いてなほ知ること多し秋灯下

 

◉あじさい公園から施設へのだらだら坂の道端にひっそり咲く雨上がりの露草。ここは毎年今の時期になると露草が私を待っている。

「斎藤一 京都新選組四番隊組頭」

 

 

 

映画「プライベート・ライアン」/船シリーズ⑦

NHK BS で放送された1998年の米映画「プライベート・ライアン」を録画再生して観終わった。

原題は「Saving Private Ryan 」で明らかにこの原題の方が内容を表していて、直訳すると「ライアン兵卒の救出」ということになる。

監督はアメリカ映画界を代表するスティーヴン・スピルバーグで、全編を通して成る程と思わせてくれる作品になっている。

顔見知りの俳優は、主演でライアンを捜索救出する分隊を率いるミラー大尉をトム・ハンクス、ライアン一等兵役がマット・デイモン、分隊員の一人で卓越した狙撃の腕を持つジャクソン二等兵を「グリーンマイル」で個性的な顔で若手看守を演じていたバリー・ペッパーなどである。

第二次大戦の連合軍の反攻起点・ノルマンディー上陸作戦を生き延び、欧州西部戦線でパリを目指す戦場が舞台、アメリカ本土の陸軍後方部隊の事務作業で、4人兄弟の内3人が同時期に戦死したことが判明する。

残された末弟のライアン一等兵も前線に居ることが分かり、陸軍参謀総長・マーシャル大将(実在の人物)は直に救出帰国させることを命令する。

この任務の責任者に歴戦の勇士で有能なミラー大尉が選ばれ、6名の部下と独仏語が堪能な事務方兵士1名の計8名の分隊を率い、前線に降下したとの情報があるライアンを捜索に出発する。

冒頭でのノルマンディーオマハビーチでの上陸作戦、任務途中でのドイツ軍との遭遇戦、ライアンを発見した後、仲間と死守している橋で少数の仲間を見捨てて一人だけ帰国は出来ないと命令を拒否したライアンに引きずられ、橋の防衛のためドイツ軍親衛隊の戦車を含む部隊と戦うシーンなど、スピルバーグ監督らしい迫力と残酷さに満ちており、戦場のリアルを見せつけられる。

ライアンは生き残るが、救出分隊はミラー大尉も含め6名が戦死事務方兵士を含む2名だけが生き残る。

この映画を通じて取り上げられる命題が「1名を助けるために多数を犠牲にして構わないか?」という普遍的な問いかけではないかと思われる。

参謀総長の救出命令は、当然ながら人道的立場からというより、むしろ「軍は冷たいのではないか?」という国内世論を意識した対応と考えられるが、戦場では目の前のひとりを助けるべく戦い、結果的に多数の犠牲が出てしまうというケースは無数に有る現実に違いない。

・ミラー大尉が戦場での夜、腹心の部下・マイク軍曹と語る言葉、

<ミラー大尉>

「(部下の)兵を死なせてしまうと自分にこう言う。2名の命を救うために死なせた、いや3名だ10名かもしれない、100名かも、私が何名失ったと思う?94名だ、しかしその10倍の兵を救ったことにもなる。もしかしたら20倍かもしれない、こう考えれば楽だ。いつもこうやって合理化して危険な任務を部下に命じている」

<マイク軍曹>

「今回は1人のため」

<ミラー大尉>

「救う価値があるか、難病の治療薬を作れるほどの人間だといい、そうでなきゃ部下を死なせたくない」

・死を前にしたミラー大尉が生き残ったライアンに残した言葉、

「生きろ 立派に」

映画の終幕、ライアンが立派に生きたことを想像させるシーンが用意してある。

◉今日の一句

 

所作ゆるり媼(おうな)手ほどき踊りの輪

 

◉ベランダから見る垂水沖の船シリーズ⑦

9月8日午後3時30分頃垂水沖を西へ航行中の商船三井の自動車運搬船・「SWIFT  ACE 」総トン数58685t、積載可能台数(小型車換算)約6200台、

横浜を出港後垂水沖を通過、福岡県苅田港で近郊にある工場のトヨタor日産の輸出自動車を積み込み、カナダへ向かう予定で航行中とみられる。

施設の「フェスティバル」

一昨日9月12日は住んでいる施設、年1回の恒例になっている「フェスティバル」で色々な催し物や屋台などで賑やかだった。

その前段、ダイニングルームで行われた吹奏楽演奏会、神戸の社会人で構成される「吹奏楽団ブラス・ポルテーニョ」が来演されPM3時頃から約1時間演奏を披露して貰った。

名前のブラスは吹奏楽のブラス、ポルテーニョはラテン語で港のことらしく、いわば神戸の吹奏楽団を意味しているとのことで、愛称は「ブラポル」らしい。

曲目は、夏の曲メドレー、りんごの歌、青い山脈、高原列車は行く、ラデツキー行進曲、etc

この楽団には施設の職員も一人在籍されているということで、以下の写真はその了解を得ている。

当日は当初「雨」と予報されていたが、一転雨が上がり屋外の庭(花の丘広場)での開催が可能になった。(PM5時半~7時頃)

ゲーム(輪投げ、じゃんけん大会、etc)が設定され、1回は無料ということで輪投げに挑んだが3回何れも外れで残念賞・トイレットペーパー。

食事も屋台が出ていて私たちは太巻とおかずのセットを購入、併せてビールも調達した。この他にスペインフードの屋台もあった。

去年は寒かった記憶がありウインドブレーカーも持参したが、半袖シャツで快適な時間だった。

舞台では個人のど自慢(カラオケ、詩吟)と入居者有志による事前に練習を重ねたフォークダンスと盆踊りが披露された。

3階自宅ベランダから撮ったダンス

盆踊り

◉雨の合間の天候に恵まれたのが第一だが、丁度季節の変わる節目に良い一日を過ごさせて貰った気がしている。

◉今日の一句

 

取り置きの醤油口開け初さんま

 

 

「合戦で読む戦国史」

伊東潤著 「合戦で読む戦国史」幻冬舎新書刊を読み終えた。

副題が「歴史を変えた野戦十二番勝負」とある通り、この本は城郭攻防戦を除く戦国時代の著名な12の野戦(陸上戦、陣地戦)を取りあげ、その戦いの主導的役割を果たした勝者又は敗者を軸にその実像に迫り、そこから勝因敗因を探り、戦いの教訓を導こうとするものである。

ただ著者は知られた歴史小説家であり、歴史研究家とは異なり自らの見解を大胆に主張出来る立場であることを、読者は充分認識しておく必要がある。

普段より字数が多くなり申し訳ないが、以下はその12の戦いについて著者の記述をベースに一部私の見解を交え、戦いの持つ意味と戦いから得られた知見や教訓を出来る丈簡潔に整理したものである。

北条氏康(勝者)と河越の戦い~新興勢力北条氏と旧勢力(関東公方、関東管領)連合軍の関東の覇権を巡る戦い。

・連合軍は誰が主将か不明確で、各部隊も明確な目標を設定されないまま戦いが始まり、その弱みが出た。戦というのは凡事を徹底することでそれが欠如した軍団が勝つことは困難。

毛利元就(勝者)と厳島の戦い~毛利氏と西国の雄・大内氏を謀叛で引き継いだ陶晴賢との中国地方の覇権をかけた戦い。

・陶晴賢はかつて元就と戦陣を共にしてきたにもかかわらず、その周到さを学ばず不必要な作戦を行って自滅した。

織田信長(勝者)と桶狭間の戦い~今川氏に比べ兵力劣勢な織田信長が、名門の強敵を破り飛躍する起点になった戦い。

・信長の天才的用兵が勝利を引き寄せたのではなく敵のミスに付け入った辛勝である。

上杉謙信(痛み分け)と川中島の戦い~経済的に豊かな謙信と、領土拡大をしなければ苦しい信玄、攻める信玄と守る謙信の衝突である。

・両雄が正面から激突した稀有な戦いだが、二人が信州で鎬(しのぎ)を削っている間、中央では織田信長が天下統一へ動き出していて、二人は時代から取り残される。

武田信玄(勝者)と三方ヶ原の戦い~死期を覚った信玄最期の大勝負・上洛戦で、その途次に領地を持つ徳川家康との戦い。

・戦力的に自分が有利で時間が味方でない場合、相手を広い場所に誘いだし決戦を強いる戦いをすべきで、信玄は家康を誘い出すことに全知全能を傾け勝利した。

武田勝頼(敗者)と長篠の戦い~奥三河地方の争奪戦で、劣勢な徳川家康は織田信長に救援を要請、織田徳川連合軍がこの機会を利用して宿敵を討った。

・武田軍の惨敗は勝頼の性格や立場に起因することが大きい。勝頼の人間性を見抜き事前に種々の手当てを実行した信長の人間洞察力の賜物である。

明智光秀(敗者)と山崎の戦い~本能寺の変で主君・織田信長を討った明智軍に対し、中国大返しで、主君の仇討を旗印として近隣武将を味方に付け優勢になった羽柴秀吉が勝ち、信長の後継者として名乗りを上げた。

・光秀には大義がなく与党が集まらず兵力劣勢な中、天候を考慮せず鉄砲で勝負を決しようとしたが、雨が続くなか鉄砲が使えず兵力差に押し切られた。「雨が降ったら勝てない」という状況に追い込まれていた時点で敗けが確定していた。

柴田勝家(敗者)と賤ケ岳の戦い~本能寺の変後、北陸を領した柴田勝家と近畿を領した羽柴秀吉が戦い、秀吉の天下取りが見えた戦い。

・戦いの切所で勝家方の前田利家が陣払いをして退いた。利家が羽柴勢に襲いかかっていたら戦いは逆転していた。秀吉は「人たらし」で紙一重の勝負をものにした。

龍造寺隆信(敗者)と沖田畷の戦い~戦国時代の九州を三分していた、島津氏、大友氏、龍造寺氏のなかで、大友氏が落ち目の中、島津と龍造寺が島原半島で激突、隆信が討ち取られ島津の九州一強が確定した。

・島津軍(有馬氏も加担)の勝利の鍵は「堅固な塁線」と「逆襲時の突進力」にあった。龍造寺軍は制海権確保などの事前準備が不充分で、隆信の強気な性格が災いし大軍の慢心が出た。

伊達政宗(勝者)と摺上原の戦い~奥羽の覇権を目指す伊達政宗が、割拠する佐竹、蘆名、二階堂、岩城、相馬各氏の連合軍を撃破し奥州の覇権を決定付けた。

・連合軍の強みは兵力にあると見抜き、自らの強みである自軍の機動力を活かして、各個撃破や兵力分散に知恵を絞った政宗は、戦の常道を知っていた。

毛利輝元(敗者)と関ケ原の戦い~この戦いで勝利者・徳川家康の天下取りが確定した。

・全てにわたって中途半端な動きに終始した毛利家は大領を失った。明確な戦略目標や勝算無いまま出兵し、背後で余剰戦力を使い北九州や四国の所領を掠め取るような動きなどは輝元の戦略眼のなさに起因する。更に家中の意思統一が出来ていなかったことが最大の失敗要因である。

(私は郷里の縁からずっと毛利氏を追跡しているが、大筋で著者の見解に同意している。)

徳川家康(勝者)と大坂の戦い~戦国時代の終りを告げる戦いで、自分が生きている内に豊臣家を滅ぼしておきたい家康と、何とか時間稼ぎをして家康の死を待ちたい豊臣家の衝突である。

・家康はこの戦いで豊臣家を滅ぼし幕府政治を円滑にスタートさせた。豊臣家が滅亡したのは慶長20年(1615)5月8日家康が死去したのは元和2年(1616)4月17日その間は1年に満たない。豊臣家が「時を稼ぐ」方針を徹底出来ていれば天下の帰すうは分からなかった。

◉今日の一句

 

吾の無事を泰国(タイ)へと告げよ秋燕

 

◉健康公園のアレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)

花の後、「ひっつき虫」となり私の野鳥観察を悩ます大敵。

「合戦で読む戦国史」

映画「レッド・オクトーバーを追え!」/船シリーズ⑥

NHK BSプレミアムシネマで放送された1990年の米映画「レッド・オクトーバーを追え!」を録画再生して観終わった。

米国の著名な小説家トム・クランシーの同名の作品が原作、彼のデビュー作でベストセラーになり飛躍するきっかけになった。

主役のソ連原子力潜水艦・レッド・オクトーバーの艦長役がショーン・コネリー、以下顔に馴染みのあるキャストのみを記すと、腹心の副長がサム・ニール、準主役でレッド・オクトーバー艦長の意図を正確に読み込み、事態の解決に貢献する米国CIA情報分析官をアレック・ボールドウィン、その上司をジェームズ・アール・ジョーンズ、レッド・オクトーバーと直接対峙することになる米国原潜艦長がスコット・グレン、米国大統領補佐官をリチャード・ジョーダンといった具合で、ショーン・コネリーは当然ながら、地味ではあるも米国原潜艦長役のスコット・グレンの渋い存在感がピッタリはまり印象的である。

ネタバレにならない程度のストーリーは以下の通り。

1980年代冷戦期のソ連で、ソナーに探知されない程に静音化された推進システム・キャタピラーを搭載した原子力潜水艦・レッドオクトーバーが完成し、その処女試験航海に出航する。

ソ連指導部からその静粛性を利用して米国本土に接近し、先制核攻撃をする計画があることを聞いた艦長は、艦もろとも腹心の将校のみを連れて米国亡命を図る。

艦長は出航に際し退路を絶つべく亡命の意図を上司に手紙で伝えたため、ソ連海軍の大部隊から撃沈のための追跡を受けることになる。

一方米国政府もCIAの情報から亡命を成功させることで、キャタピラー推進システムの技術取得を図るべく、空母や原潜まで使い密かな戦いを繰り広げる。

潜水艦映画ではソナーなど音響探知が常に重要な役を果たすことになるが、この映画では特に推進システムがストーリーの核心であることから息詰まる心理戦が展開され、魚雷戦も含め音の効果が際立つような映画になっている。

観終わって知ったのだが、この映画はアカデミー音響効果賞を受賞しているとのことで、全く私の受け止めに合致していて個人的に嬉しくなった。

映画の最終シーンは、全てが終わってCIA分析官が家族のもとへ帰る民間飛行機の機内で、その脇に娘から頼まれた熊のぬいぐるみが置かれていて、それまでの連続した緊迫シーンとの対比が面白く効果的に使われ救いになっている。

◉今日の一句

 

初さんま寿命延びると母の云う

 

◉ベランダから見る垂水沖の船シリーズ⑥

8月25日10時45分頃垂水沖を西へ航行する大型LNG船、たまたま目にしたのだが翌日の8月26日17時40分頃同船は垂水沖を東へ航行している。

よく見ると25日と26日の船では明らかに喫水線が異なり(LNG の文字と海面との距離を比べて)25日の方が深く、26日は浅くなっている。

船名はハッキリわからなかったが、同船は積み荷を西のLNG基地・姫路、水島(岡山)、廿日市(広島)、柳井(山口)などに届けて降ろし、翌日帰投していることがわかる。(LNG 基地はこの他四国、九州にもある)

西行き

東行き

「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」

足利健亮(あしかがけんりょう)著「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」吉川弘文館刊を読み終えた。

著者は歴史地理学会などの重鎮のようで、1999年に病没されているが、この本は元々2000年に創元社から刊行されたものを2016年に再刊されたもので、いわゆる遺著にも当たるらしい。そのせいもあり巻末の「あとがきに代えて」はご子息が書かれている。

戦国末期の三英傑について、彼らはなぜ以下の地を選んだのか、地図や地形から検討し、史料と併せその戦略や考えを読み解こうとするのが著者が本書に託した狙いである。

①琵琶湖畔安土に壮大な天主を建てた信長。

信長は琵琶湖畔に安土城を築いたが、そこから東へ長浜城(城主・秀吉)、等距離の西へ坂本城(城主・光秀)、対岸へ大溝城(城主・織田信澄)を築き安土を要にした完全な平行四辺形の形で城郭配置を完成させた。この場合各城と安土城は山岳などに邪魔されず相互に直接視認出来る位置に有る。

信長は京都に居座るつもりがなく安土を自らの首都と考え、自分自身を天主と想定し「天主安土」として完成させた、信長にとっての終のすみかであった。

②京都に聚楽第・お土居を築いた秀吉。

聚楽第の内郭は四方全長が1000間(1818m)、外郭総構え四方3000間(5454m)の規模で、総構えは大阪城と同類同規模といえる。

この土木工事のなかで秀吉は都の色彩を薄め、城下町としての色を際立たせた。城下町化を完成させたのは京の大改造と御所、聚楽第を包み込むお土居の構築であった。

お土居は聚楽第の守備防御を原理として構築されたが、これは信長が光秀に討たれたことを教訓にした秀吉の恐怖心から表現されたものと見える。

③関東に入部すると迷わず江戸に本拠を移した家康。

関東に入部した際人々は鎌倉か小田原を城地にすると思っていた。この期待を裏切り江戸を選んだのは太田道灌以来富士山が見える土地として知られた伝統があったからである。

(著者は江戸を選んだ理由のなかで、秀吉から指示された可能性に言及し、その場合でも自分を納得させる理由として富士山が見えることがあったと書いている)

家康は言葉にこだわる人であったが、富士見は不死身に通じ戦国武将の憧憬に合致する。

◉今日の二句、9月度垂水俳句講座の兼題・蓑虫

 

蓑虫や簑継ぎ足しつ世を渡る

 

「日本奥地紀行」の自画像から

蓑虫やイザベラ・バード簑まとふ

 

◉施設の庭、蝉時雨も終わり秋の気配、パンパスグラスとセイヨウニンジンボク。

「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」

 

朝ドラ「風薫る」脚気(かっけ)あれこれ/蝉5種の写真

少しブログに書くのが遅れてしまったが、先週のNHK朝ドラ「風薫る」では、主人公の一人直美の夫・小川吾郎が日清戦争に出征し、負傷の後台湾の陸軍病院で脚気で亡くなる事態で、その前後のシーンは辛い場面が多く涙を誘われた。

日清戦争は朝鮮国の去就を巡って明治27年(1894)に日本が清国(中国)と戦いを始め、陸海の戦闘に勝利し、翌年の下関講和会議で日本は、賠償金や台湾及び澎湖諸島を得た。(この前後有名な三国干渉があるが割愛)

直美の台詞に「戦争が終わったのに死んじゃうなんてある?」から読む解くと小川吾郎は、講和会議後台湾に進駐した日本軍と台湾民主国軍や現地義勇兵との戦闘に従軍、負傷後脚気により戦病死した設定と思われる。

脚気は白米を主食として副食が貧しい場合、ビタミンB1の欠乏によって起きるが、江戸時代~明治期には伝染病説や中毒説が流布するなかで流行した。

明治陸軍も例外でなく、例えば森林太郎(森鷗外)など軍医中枢も伝染病説が主流で対応が後手に廻った。(明治初期来日した外国人医学教師等も脚気医学の知識が殆ど無かったと云われる)

日清戦争~台湾平定時の陸軍に於ける脚気死亡者数は記録に依れば4064人といわれ、戦死者数997人の実に4倍にのぼり、特に台湾平定時が多いとされる。

この傾向は明治33年(1900)義和団事件(北清事変)出兵、明治37年(1904)の日露戦争まで継続する。その後現場での実証や研究が進み大正2年(1913)~3年にかけて精米から米麦へと給与令が変更され順次低減していくことになる。

当時この混乱を長びかせた要因のひとつに世情の問題があった。すなわち白米のご飯は庶民の憧れであり「兵隊に行けば白米飯が食べられる」「麦飯は庶民の食事」ということから、死をも前にした出征兵士には白米が必須という考え方があった。

何れにせよ「風薫る」の作者は歴史背景を充分に理解し、ストーリーを創られていることがよく分かる。

◉今日の一句

 

蝉時雨旬日毎の声替わり

 

今年7~8月健康公園で出会った5種の蝉の集合写真を施設の通路に掲示するのに併せて詠んだ句。今年蝉の成虫を観察して色々新しいことがわかったが、蝉の集中した鳴き声・蝉時雨は凡そ10日程度で声の主が替わっていき、クマゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシといった具合である。

今年はニイニイゼミとミンミンゼミのはっきりした鳴き声を聴くことは出来なかった。

1枚の写真に複数の写真を入れて、その写真に文字を入れることを時間をかけて試行錯誤していたが、ようやく問題なく出来るようになって来た。