「合戦で読む戦国史」

伊東潤著 「合戦で読む戦国史」幻冬舎新書刊を読み終えた。

副題が「歴史を変えた野戦十二番勝負」とある通り、この本は城郭攻防戦を除く戦国時代の著名な12の野戦(陸上戦、陣地戦)を取りあげ、その戦いの主導的役割を果たした勝者又は敗者を軸にその実像に迫り、そこから勝因敗因を探り、戦いの教訓を導こうとするものである。

ただ著者は知られた歴史小説家であり、歴史研究家とは異なり自らの見解を大胆に主張出来る立場であることを、読者は充分認識しておく必要がある。

普段より字数が多くなり申し訳ないが、以下はその12の戦いについて著者の記述をベースに一部私の見解を交え、戦いの持つ意味と戦いから得られた知見や教訓を出来る丈簡潔に整理したものである。

北条氏康(勝者)と河越の戦い~新興勢力北条氏と旧勢力(関東公方、関東管領)連合軍の関東の覇権を巡る戦い。

・連合軍は誰が主将か不明確で、各部隊も明確な目標を設定されないまま戦いが始まり、その弱みが出た。戦というのは凡事を徹底することでそれが欠如した軍団が勝つことは困難。

毛利元就(勝者)と厳島の戦い~毛利氏と西国の雄・大内氏を謀叛で引き継いだ陶晴賢との中国地方の覇権をかけた戦い。

・陶晴賢はかつて元就と戦陣を共にしてきたにもかかわらず、その周到さを学ばず不必要な作戦を行って自滅した。

織田信長(勝者)と桶狭間の戦い~今川氏に比べ兵力劣勢な織田信長が、名門の強敵を破り飛躍する起点になった戦い。

・信長の天才的用兵が勝利を引き寄せたのではなく敵のミスに付け入った辛勝である。

上杉謙信(痛み分け)と川中島の戦い~経済的に豊かな謙信と、領土拡大をしなければ苦しい信玄、攻める信玄と守る謙信の衝突である。

・両雄が正面から激突した稀有な戦いだが、二人が信州で鎬(しのぎ)を削っている間、中央では織田信長が天下統一へ動き出していて、二人は時代から取り残される。

武田信玄(勝者)と三方ヶ原の戦い~死期を覚った信玄最期の大勝負・上洛戦で、その途次に領地を持つ徳川家康との戦い。

・戦力的に自分が有利で時間が味方でない場合、相手を広い場所に誘いだし決戦を強いる戦いをすべきで、信玄は家康を誘い出すことに全知全能を傾け勝利した。

武田勝頼(敗者)と長篠の戦い~奥三河地方の争奪戦で、劣勢な徳川家康は織田信長に救援を要請、織田徳川連合軍がこの機会を利用して宿敵を討った。

・武田軍の惨敗は勝頼の性格や立場に起因することが大きい。勝頼の人間性を見抜き事前に種々の手当てを実行した信長の人間洞察力の賜物である。

明智光秀(敗者)と山崎の戦い~本能寺の変で主君・織田信長を討った明智軍に対し、中国大返しで、主君の仇討を旗印として近隣武将を味方に付け優勢になった羽柴秀吉が勝ち、信長の後継者として名乗りを上げた。

・光秀には大義がなく与党が集まらず兵力劣勢な中、天候を考慮せず鉄砲で勝負を決しようとしたが、雨が続くなか鉄砲が使えず兵力差に押し切られた。「雨が降ったら勝てない」という状況に追い込まれていた時点で敗けが確定していた。

柴田勝家(敗者)と賤ケ岳の戦い~本能寺の変後、北陸を領した柴田勝家と近畿を領した羽柴秀吉が戦い、秀吉の天下取りが見えた戦い。

・戦いの切所で勝家方の前田利家が陣払いをして退いた。利家が羽柴勢に襲いかかっていたら戦いは逆転していた。秀吉は「人たらし」で紙一重の勝負をものにした。

龍造寺隆信(敗者)と沖田畷の戦い~戦国時代の九州を三分していた、島津氏、大友氏、龍造寺氏のなかで、大友氏が落ち目の中、島津と龍造寺が島原半島で激突、隆信が討ち取られ島津の九州一強が確定した。

・島津軍(有馬氏も加担)の勝利の鍵は「堅固な塁線」と「逆襲時の突進力」にあった。龍造寺軍は制海権確保などの事前準備が不充分で、隆信の強気な性格が災いし大軍の慢心が出た。

伊達政宗(勝者)と摺上原の戦い~奥羽の覇権を目指す伊達政宗が、割拠する佐竹、蘆名、二階堂、岩城、相馬各氏の連合軍を撃破し奥州の覇権を決定付けた。

・連合軍の強みは兵力にあると見抜き、自らの強みである自軍の機動力を活かして、各個撃破や兵力分散に知恵を絞った政宗は、戦の常道を知っていた。

毛利輝元(敗者)と関ケ原の戦い~この戦いで勝利者・徳川家康の天下取りが確定した。

・全てにわたって中途半端な動きに終始した毛利家は大領を失った。明確な戦略目標や勝算無いまま出兵し、背後で余剰戦力を使い北九州や四国の所領を掠め取るような動きなどは輝元の戦略眼のなさに起因する。更に家中の意思統一が出来ていなかったことが最大の失敗要因である。

(私は郷里の縁からずっと毛利氏を追跡しているが、大筋で著者の見解に同意している。)

徳川家康(勝者)と大坂の戦い~戦国時代の終りを告げる戦いで、自分が生きている内に豊臣家を滅ぼしておきたい家康と、何とか時間稼ぎをして家康の死を待ちたい豊臣家の衝突である。

・家康はこの戦いで豊臣家を滅ぼし幕府政治を円滑にスタートさせた。豊臣家が滅亡したのは慶長20年(1615)5月8日家康が死去したのは元和2年(1616)4月17日その間は1年に満たない。豊臣家が「時を稼ぐ」方針を徹底出来ていれば天下の帰すうは分からなかった。

◉今日の一句

 

吾の無事を泰国(タイ)へと告げよ秋燕

 

◉健康公園のアレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)

花の後、「ひっつき虫」となり私の野鳥観察を悩ます大敵。

「合戦で読む戦国史」

映画「レッド・オクトーバーを追え!」/船シリーズ⑥

NHK BSプレミアムシネマで放送された1990年の米映画「レッド・オクトーバーを追え!」を録画再生して観終わった。

米国の著名な小説家トム・クランシーの同名の作品が原作、彼のデビュー作でベストセラーになり飛躍するきっかけになった。

主役のソ連原子力潜水艦・レッド・オクトーバーの艦長役がショーン・コネリー、以下顔に馴染みのあるキャストのみを記すと、腹心の副長がサム・ニール、準主役でレッド・オクトーバー艦長の意図を正確に読み込み、事態の解決に貢献する米国CIA情報分析官をアレック・ボールドウィン、その上司をジェームズ・アール・ジョーンズ、レッド・オクトーバーと直接対峙することになる米国原潜艦長がスコット・グレン、米国大統領補佐官をリチャード・ジョーダンといった具合で、ショーン・コネリーは当然ながら、地味ではあるも米国原潜艦長役のスコット・グレンの渋い存在感がピッタリはまり印象的である。

ネタバレにならない程度のストーリーは以下の通り。

1980年代冷戦期のソ連で、ソナーに探知されない程に静音化された推進システム・キャタピラーを搭載した原子力潜水艦・レッドオクトーバーが完成し、その処女試験航海に出航する。

ソ連指導部からその静粛性を利用して米国本土に接近し、先制核攻撃をする計画があることを聞いた艦長は、艦もろとも腹心の将校のみを連れて米国亡命を図る。

艦長は出航に際し退路を絶つべく亡命の意図を上司に手紙で伝えたため、ソ連海軍の大部隊から撃沈のための追跡を受けることになる。

一方米国政府もCIAの情報から亡命を成功させることで、キャタピラー推進システムの技術取得を図るべく、空母や原潜まで使い密かな戦いを繰り広げる。

潜水艦映画ではソナーなど音響探知が常に重要な役を果たすことになるが、この映画では特に推進システムがストーリーの核心であることから息詰まる心理戦が展開され、魚雷戦も含め音の効果が際立つような映画になっている。

観終わって知ったのだが、この映画はアカデミー音響効果賞を受賞しているとのことで、全く私の受け止めに合致していて個人的に嬉しくなった。

映画の最終シーンは、全てが終わってCIA分析官が家族のもとへ帰る民間飛行機の機内で、その脇に娘から頼まれた熊のぬいぐるみが置かれていて、それまでの連続した緊迫シーンとの対比が面白く効果的に使われ救いになっている。

◉今日の一句

 

初さんま寿命延びると母の云う

 

◉ベランダから見る垂水沖の船シリーズ⑥

8月25日10時45分頃垂水沖を西へ航行する大型LNG船、たまたま目にしたのだが翌日の8月26日17時40分頃同船は垂水沖を東へ航行している。

よく見ると25日と26日の船では明らかに喫水線が異なり(LNG の文字と海面との距離を比べて)25日の方が深く、26日は浅くなっている。

船名はハッキリわからなかったが、同船は積み荷を西のLNG基地・姫路、水島(岡山)、廿日市(広島)、柳井(山口)などに届けて降ろし、翌日帰投していることがわかる。(LNG 基地はこの他四国、九州にもある)

西行き

東行き

「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」

足利健亮(あしかがけんりょう)著「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」吉川弘文館刊を読み終えた。

著者は歴史地理学会などの重鎮のようで、1999年に病没されているが、この本は元々2000年に創元社から刊行されたものを2016年に再刊されたもので、いわゆる遺著にも当たるらしい。そのせいもあり巻末の「あとがきに代えて」はご子息が書かれている。

戦国末期の三英傑について、彼らはなぜ以下の地を選んだのか、地図や地形から検討し、史料と併せその戦略や考えを読み解こうとするのが著者が本書に託した狙いである。

①琵琶湖畔安土に壮大な天主を建てた信長。

信長は琵琶湖畔に安土城を築いたが、そこから東へ長浜城(城主・秀吉)、等距離の西へ坂本城(城主・光秀)、対岸へ大溝城(城主・織田信澄)を築き安土を要にした完全な平行四辺形の形で城郭配置を完成させた。この場合各城と安土城は山岳などに邪魔されず相互に直接視認出来る位置に有る。

信長は京都に居座るつもりがなく安土を自らの首都と考え、自分自身を天主と想定し「天主安土」として完成させた、信長にとっての終のすみかであった。

②京都に聚楽第・お土居を築いた秀吉。

聚楽第の内郭は四方全長が1000間(1818m)、外郭総構え四方3000間(5454m)の規模で、総構えは大阪城と同類同規模といえる。

この土木工事のなかで秀吉は都の色彩を薄め、城下町としての色を際立たせた。城下町化を完成させたのは京の大改造と御所、聚楽第を包み込むお土居の構築であった。

お土居は聚楽第の守備防御を原理として構築されたが、これは信長が光秀に討たれたことを教訓にした秀吉の恐怖心から表現されたものと見える。

③関東に入部すると迷わず江戸に本拠を移した家康。

関東に入部した際人々は鎌倉か小田原を城地にすると思っていた。この期待を裏切り江戸を選んだのは太田道灌以来富士山が見える土地として知られた伝統があったからである。

(著者は江戸を選んだ理由のなかで、秀吉から指示された可能性に言及し、その場合でも自分を納得させる理由として富士山が見えることがあったと書いている)

家康は言葉にこだわる人であったが、富士見は不死身に通じ戦国武将の憧憬に合致する。

◉今日の二句、9月度垂水俳句講座の兼題・蓑虫

 

蓑虫や簑継ぎ足しつ世を渡る

 

「日本奥地紀行」の自画像から

蓑虫やイザベラ・バード簑まとふ

 

◉施設の庭、蝉時雨も終わり秋の気配、パンパスグラスとセイヨウニンジンボク。

「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」

 

朝ドラ「風薫る」脚気(かっけ)あれこれ/蝉5種の写真

少しブログに書くのが遅れてしまったが、先週のNHK朝ドラ「風薫る」では、主人公の一人直美の夫・小川吾郎が日清戦争に出征し、負傷の後台湾の陸軍病院で脚気で亡くなる事態で、その前後のシーンは辛い場面が多く涙を誘われた。

日清戦争は朝鮮国の去就を巡って明治27年(1894)に日本が清国(中国)と戦いを始め、陸海の戦闘に勝利し、翌年の下関講和会議で日本は、賠償金や台湾及び澎湖諸島を得た。(この前後有名な三国干渉があるが割愛)

直美の台詞に「戦争が終わったのに死んじゃうなんてある?」から読む解くと小川吾郎は、講和会議後台湾に進駐した日本軍と台湾民主国軍や現地義勇兵との戦闘に従軍、負傷後脚気により戦病死した設定と思われる。

脚気は白米を主食として副食が貧しい場合、ビタミンB1の欠乏によって起きるが、江戸時代~明治期には伝染病説や中毒説が流布するなかで流行した。

明治陸軍も例外でなく、例えば森林太郎(森鷗外)など軍医中枢も伝染病説が主流で対応が後手に廻った。(明治初期来日した外国人医学教師等も脚気医学の知識が殆ど無かったと云われる)

日清戦争~台湾平定時の陸軍に於ける脚気死亡者数は記録に依れば4064人といわれ、戦死者数997人の実に4倍にのぼり、特に台湾平定時が多いとされる。

この傾向は明治33年(1900)義和団事件(北清事変)出兵、明治37年(1904)の日露戦争まで継続する。その後現場での実証や研究が進み大正2年(1913)~3年にかけて精米から米麦へと給与令が変更され順次低減していくことになる。

当時この混乱を長びかせた要因のひとつに世情の問題があった。すなわち白米のご飯は庶民の憧れであり「兵隊に行けば白米飯が食べられる」「麦飯は庶民の食事」ということから、死をも前にした出征兵士には白米が必須という考え方があった。

何れにせよ「風薫る」の作者は歴史背景を充分に理解し、ストーリーを創られていることがよく分かる。

◉今日の一句

 

蝉時雨旬日毎の声替わり

 

今年7~8月健康公園で出会った5種の蝉の集合写真を施設の通路に掲示するのに併せて詠んだ句。今年蝉の成虫を観察して色々新しいことがわかったが、蝉の集中した鳴き声・蝉時雨は凡そ10日程度で声の主が替わっていき、クマゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシといった具合である。

今年はニイニイゼミとミンミンゼミのはっきりした鳴き声を聴くことは出来なかった。

1枚の写真に複数の写真を入れて、その写真に文字を入れることを時間をかけて試行錯誤していたが、ようやく問題なく出来るようになって来た。

 

 

 

 

 

 

9月度句会

昨日は住んでいる施設の定例9月度の句会があり12人の出席であった。

今月の兼題は「花火」晩夏の季語である。この題を使った1句以上を含めた5句を各人が投句し、誰の句か分からないようにして、各人が自作以外の特選句1句と並選句4句計5句を選び発表する。

私はこのブログに書いたものや新しく創作したりして以下の5句を出した。

 

①遅れ来る音やはらかに遠花火

現在の地に越して来て見た花火は、淡路島からのと名谷のオリックスバファローズ球場(ほっともっとフィールド神戸)の花火で、何れも「遠花火」である。遠くの花火なのであの耳に突き刺す音も穏やかに心地よく聴こえそのことを詠んでみた。

 

②ひと房に花と実たわわ百日紅

住んでいる施設の庭に百日紅が植えてあり、毎年花を咲かせる。今年下方に有る花房をよく見ると不思議なことに花と実が同じ房の中にある。これは百日紅の特徴で小さい花が順次咲いて順次散り実が成っていくためで房の枝がたわむ様子も含め詠んでみた。この歳になっても新しく知ることが限りなく有る。

 

③生きんとて蝉食む野鳥(とり)の哀しさや

今年蝉の成虫の観察を始めたが、その過程で二度鳥が蝉を捕食するのを目撃した。自然の摂理だがいざ目撃すると何とも云えない気持ちが生じたことを詠んでみた。

 

④地震(なゐ)二度の残暑の街になほ生きる

最近自然災害が多いが、それも同一の地域に複数回起きることが習いとなっているような不条理を感じる。熊本は10年を経て二度目の地震に遭遇したが、それでも生活を立て直そうと云う高齢の住民の言葉に感動した。

 

⑤三世代所作(しょさ)それぞれの墓参り

三世代で永代供養の御堂に盆参りしたが、それぞれ自分なりの動作でお参りしていることが分かり、その事が却って良いと思い詠んでみた。

結果は①の句が特選2名、並選3名、②の句が並選2名、③の句が並選1名、④の句が特選1名、並選1名、⑤の句が特選1名、並選3名で、予期せぬ程の評価で喜んでいる。

②の句に並選を入れて貰った二人の方にお聞きすると、花と実が同時に見られるという百日紅の特徴をご存知とのことで、大いに納得した。

掲示して貰う句は①、⑤、②とした。

私が特選に推したのは以下の句で「寝顔かな」に共感した。

手花火に興ぜし子らの寝顔かな

 

◉蝉観察の途上に出会った昆虫

オオスズメバチがクマゼミを襲い地上に引き落とし格闘している。噛まれたクマゼミは翅を必死にバタつかせ約20~30秒後何とか逃れたが、飛び方が弱々しく相当なダメージを受けていて、赤裸々に昆虫の世界を見た気がした。

幼いカマキリ、なめるなよ!いつでもやるぞとファイテングポーズ

ヤブキリ(キリギリスの仲間・藪キリギリス)肉食を好み性格がどう猛。

キマダラカメムシ、桜の木などに産卵し都市近郊を好むらしい。元々東南アジアを原産とする外来種だが、江戸時代既に長崎を入り口として侵入した記録有り。

 

 

 

 

健康公園の野鳥シリーズ㉙

このブログ6月22日の健康公園の野鳥シリーズ㉗、及び7月15日の同シリーズ㉘「ムクドリの日光浴」以後に撮影出来た写真を載せる。

特に8月に入って以降野鳥を見かけることが少なくなり、これは昨年も同傾向で、野鳥も暑さを避けているのではと思われるし、私も午後は公園を歩く頻度を減らしている。

ただ時折群れではなく個で出掛けて来て、エサなどを探すことを見かける機会がある。然し今の時期は樹木には葉が繁り、地上は雑草で覆われ、野鳥の鳴き声は蝉の声で掻き消されるという、野鳥観察には誠に不利な条件が重なっている。

野鳥を観察していて分かったことのひとつに春から夏にかけての幼鳥の存在がある。野鳥は巣立ちしてしばらくはとても一人前とは云えず、身体の色調が淡く動作が緩慢で、しばしば親鳥からのエサの提供を受けている。

一般に野鳥の(生態的)平均寿命は1~2年の間と云われるが、捕食者や飢餓、気候などの影響を受けない生理的寿命は数年~10年位と云われていて、この生理的寿命と生態的寿命の差はこの幼鳥時代に多くの場合影響を受けているのではと思える。

①ヤマガラ(山雀)全長14cm留鳥・漂鳥

このヤマガラは私が公園を歩いていると突然目の前を横切って10m位先に着地し餌を探し始めた。写真を撮って欲しかったのだろうか?

以下の2枚は外観色が未成熟で明らかに幼鳥と見える。

②メジロ(目白)全長12cm留鳥・漂鳥

以下の2枚は動作や羽毛の状態などから幼鳥のような気がする。

③ムクドリ(椋鳥)全長24cm留鳥・漂鳥

ムクドリもひと頃のような大きな群れは見掛けなくなった。

以下の2枚は幼鳥。

④ツバメ(燕)全長17cm夏鳥

飛んでいるところをベランダから撮った数多い失敗写真の中の、何とか感じが出ている2枚。

近くのスーパーの外周通路の天井に巣作りした親子。右側が親鳥で左の子燕に巣立ちを促しているがなかなか飛び立たない。親も大変!

巣立ち前の子燕、どうしようか?と不安?図体は一人前なのだが。

⑤イソヒヨドリ(磯鵯)全長25cm留鳥

どうも施設の庭辺りに巣が有るようで、今年は今まで以上に周辺でよく見かけるようになった。

これは幼鳥と思える。

⑥ヒヨドリ(鵯)全長28cm留鳥・漂鳥

この2羽は幼鳥、私がかなり近付いても逃げずに2羽で寄り添い、親鳥を呼ぶようなか細い声をあげていた。邪魔になるかと思い撮影後直ぐに離れた。

⑦スズメ(雀)全長15cm留鳥

野鳥の写真を撮り始める前は、一体スズメはどこに行ったのかと思っていたが、現在は溢れるほど居ることが分かり安心した。

⑧ハクセキレイ(白鶺鴒)全長21cm留鳥

⑨コゲラ(小啄木鳥)全長15cm留鳥

コゲラを見つける手掛かりにしていたジージーという独特な鳴き声が、蝉や虫の声に近いので聞き分けることがとても難しくなっている。

◉今日の一句

 

印南野(いなみの)に出穂(しゅっすい)急かす稲光

(印南野は加古川、高砂など東播磨一帯を指す古い地名)

 

 

「伊藤博文・近代日本を創った男」/蝉シリーズ⑤ニイニイゼミ

伊藤之雄(いとうゆきお)著「伊藤博文・近代日本を創った男」講談社学術文庫 刊を読み終えた。

この本は2009年に出版された同名の単行本をもとに若干の加筆をした上で学術文庫版として刊行されたもので、近年本は図書館で借りて読むことにしている自己ルールに反しAmazonで購入したものである。

神戸に越して来て我が故郷の山口県(長州藩)の先人が初代兵庫県知事として治績をあげていたことを知り、もう少し伊藤博文のことを知りたいと思ったことの一環である。

著者は日本近代史、政治外交史の専門家で、2009年時点で「伊藤博文のことが気になり出してもう20年になる」と書かれている。

神戸に引っ越すまでの伊藤博文に対する私の知識は以下のようなもので郷里の先人のなかでも尊敬に値する人物とは思っていた。

・農民の生まれながら足軽身分を経て士分となり高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)などの知遇を得る。

・吉田松陰門下で周旋家(交渉家)の評価を師から受ける。

・幕末長州藩が優秀な若手5名をイギリスに密航留学させたいわゆる長州ファイブの一員である。

・長州藩が4ヶ国を相手に下関で攘夷砲撃戦を行ったことをイギリスで知り、これを止めるべく死を覚悟して盟友の井上馨と急きょ帰国、通訳などとして長州藩をサポートした。

・長州藩が佐幕派(俗論派)政権になった際、高杉晋作が下関でクーデター挙兵した折に集まったのは総勢80人ほどであったが、内10数人は伊藤が率いた力士隊であった。結局この挙兵が長州藩の維新へ向けた転換点になった。

この本は上記のような青春時代や幕末激動の時代から説き起こし、明治新政府での活躍、大久保利通、木戸孝允亡き後、新政府元老筆頭として伊藤体制の構築、明治憲法制定、日清・日露戦争指導、条約改正、立憲政党政治体制の構築、明治天皇との緊密な関係、韓国統監時代、暗殺による死までが、巻末に載せられた膨大な史料群をもとに提示される。

もちろんこの中には初代兵庫県知事時代の内容も含まれている。

著者はこの稀有な評伝を、幕末維新期の長州藩を率いた木戸孝允が伊藤博文を評した言葉「剛凌強直(ごうりょうきょうちょく)」(強く厳しく正直)で一貫して表現していて、その時々の伊藤の行動や思考にこの言葉が合致していることを知ることになる。

明治42年(1909)10月(ポーツマス日露講和から4年後、韓国統監辞任から4ヶ月後)伊藤は欧州訪問の途中、満州を初めて訪れ、ロシア蔵相と会談予定のハルピン駅で朝鮮人・安重根(アンジュングン)に狙撃され死亡する。

著者は伊藤の死がその後の以下のようなことにも影響したと書いている。

・韓国併合後の統治に朝鮮人による「責任内閣」を組織し、日本は間接的に統治するという構想が否定され、強圧的に併合する路線が強まる。

・伊藤は明治憲法の不備な点として、陸海軍大臣に対する首相の権限を強めようとしていたが、このことがなされないまま昭和初期を迎え日本が戦争へと進んでいく一因になった。

少し脇道に逸れるが私の郷里・山口県厚狭郡山陽町(現山陽小野田市)出身の明治期の外務大臣・青木周蔵と伊藤博文はどうもソリが合わなかったらしい。

青木はドイツ留学を経てドイツ公使なども勤めドイツの皇帝親政を理想とし、伊藤のイギリスを手本とする「君臨すれど統治せず」の立憲君主制を理想とする君主観に相容れなかった。そのことも含め青木は同じ長州人でも陸軍の総帥・山縣有朋の閥に属した。

◉私はこの669ページの本を読了するのに行きつ戻りつ約1週間かかった。読み終えて本の写真を撮る際、気になった箇所に貼り付ける付箋がやたら多いのに気付き数えてみると38枚有った。多分これ程多いのは初めてで、この本から得られたものの大きさを示されたような気がしている。少し気が早いが今年読んだ本のなかでは屈指の内容充実の本ではないかと思える。

◉今日の一句

 

望郷が募る泰国流灯会

 

◉健康公園周辺の蝉⑤ニイニイゼミ

今年蝉の成虫を追いかけ始め一番驚いたのは、ニイニイゼミを殆ど見掛ける機会がないことであった。

以下の写真はたまたま朝歩いていて偶然目に止まった唯一のもので、幸い写真を撮るまでじっと待っててくれた。

子供の頃遊んでいた村の周辺では、このニイニイゼミが溢れるほどいて、低い位置にも止まっていることから手で捕まえることも出来た。

調べてみると、このニイニイゼミの減少は専門家の間でも研究テーマにもなっていて、都市部で特に顕著らしいが、乾燥や地表の整備、森林の減少などが影響しているらしく、体長も20mm程度と小さいこともあり、8月10日のこのブログ「蝉シリーズ①クマゼミ」に書いた幼虫の土に潜る力による増加傾向と対極にある。

木の幹などと保護色傾向があり、遠くからは見つけ難い。写真の個体も最初はニイニイゼミとは分からなかったが、恐る恐る近づきようやく理解しシャッターを切った。

動物などの生態系は半世紀も経てば激変する可能性があるということを強く感じた次第である。

「伊藤博文・近代日本を創った男」