伊東潤著 「合戦で読む戦国史」幻冬舎新書刊を読み終えた。
副題が「歴史を変えた野戦十二番勝負」とある通り、この本は城郭攻防戦を除く戦国時代の著名な12の野戦(陸上戦、陣地戦)を取りあげ、その戦いの主導的役割を果たした勝者又は敗者を軸にその実像に迫り、そこから勝因敗因を探り、戦いの教訓を導こうとするものである。
ただ著者は知られた歴史小説家であり、歴史研究家とは異なり自らの見解を大胆に主張出来る立場であることを、読者は充分認識しておく必要がある。
普段より字数が多くなり申し訳ないが、以下はその12の戦いについて著者の記述をベースに一部私の見解を交え、戦いの持つ意味と戦いから得られた知見や教訓を出来る丈簡潔に整理したものである。
①北条氏康(勝者)と河越の戦い~新興勢力北条氏と旧勢力(関東公方、関東管領)連合軍の関東の覇権を巡る戦い。
・連合軍は誰が主将か不明確で、各部隊も明確な目標を設定されないまま戦いが始まり、その弱みが出た。戦というのは凡事を徹底することでそれが欠如した軍団が勝つことは困難。
②毛利元就(勝者)と厳島の戦い~毛利氏と西国の雄・大内氏を謀叛で引き継いだ陶晴賢との中国地方の覇権をかけた戦い。
・陶晴賢はかつて元就と戦陣を共にしてきたにもかかわらず、その周到さを学ばず不必要な作戦を行って自滅した。
③織田信長(勝者)と桶狭間の戦い~今川氏に比べ兵力劣勢な織田信長が、名門の強敵を破り飛躍する起点になった戦い。
・信長の天才的用兵が勝利を引き寄せたのではなく敵のミスに付け入った辛勝である。
④上杉謙信(痛み分け)と川中島の戦い~経済的に豊かな謙信と、領土拡大をしなければ苦しい信玄、攻める信玄と守る謙信の衝突である。
・両雄が正面から激突した稀有な戦いだが、二人が信州で鎬(しのぎ)を削っている間、中央では織田信長が天下統一へ動き出していて、二人は時代から取り残される。
⑤武田信玄(勝者)と三方ヶ原の戦い~死期を覚った信玄最期の大勝負・上洛戦で、その途次に領地を持つ徳川家康との戦い。
・戦力的に自分が有利で時間が味方でない場合、相手を広い場所に誘いだし決戦を強いる戦いをすべきで、信玄は家康を誘い出すことに全知全能を傾け勝利した。
⑥武田勝頼(敗者)と長篠の戦い~奥三河地方の争奪戦で、劣勢な徳川家康は織田信長に救援を要請、織田徳川連合軍がこの機会を利用して宿敵を討った。
・武田軍の惨敗は勝頼の性格や立場に起因することが大きい。勝頼の人間性を見抜き事前に種々の手当てを実行した信長の人間洞察力の賜物である。
⑦明智光秀(敗者)と山崎の戦い~本能寺の変で主君・織田信長を討った明智軍に対し、中国大返しで、主君の仇討を旗印として近隣武将を味方に付け優勢になった羽柴秀吉が勝ち、信長の後継者として名乗りを上げた。
・光秀には大義がなく与党が集まらず兵力劣勢な中、天候を考慮せず鉄砲で勝負を決しようとしたが、雨が続くなか鉄砲が使えず兵力差に押し切られた。「雨が降ったら勝てない」という状況に追い込まれていた時点で敗けが確定していた。
⑧柴田勝家(敗者)と賤ケ岳の戦い~本能寺の変後、北陸を領した柴田勝家と近畿を領した羽柴秀吉が戦い、秀吉の天下取りが見えた戦い。
・戦いの切所で勝家方の前田利家が陣払いをして退いた。利家が羽柴勢に襲いかかっていたら戦いは逆転していた。秀吉は「人たらし」で紙一重の勝負をものにした。
⑨龍造寺隆信(敗者)と沖田畷の戦い~戦国時代の九州を三分していた、島津氏、大友氏、龍造寺氏のなかで、大友氏が落ち目の中、島津と龍造寺が島原半島で激突、隆信が討ち取られ島津の九州一強が確定した。
・島津軍(有馬氏も加担)の勝利の鍵は「堅固な塁線」と「逆襲時の突進力」にあった。龍造寺軍は制海権確保などの事前準備が不充分で、隆信の強気な性格が災いし大軍の慢心が出た。
⑩伊達政宗(勝者)と摺上原の戦い~奥羽の覇権を目指す伊達政宗が、割拠する佐竹、蘆名、二階堂、岩城、相馬各氏の連合軍を撃破し奥州の覇権を決定付けた。
・連合軍の強みは兵力にあると見抜き、自らの強みである自軍の機動力を活かして、各個撃破や兵力分散に知恵を絞った政宗は、戦の常道を知っていた。
⑪毛利輝元(敗者)と関ケ原の戦い~この戦いで勝利者・徳川家康の天下取りが確定した。
・全てにわたって中途半端な動きに終始した毛利家は大領を失った。明確な戦略目標や勝算無いまま出兵し、背後で余剰戦力を使い北九州や四国の所領を掠め取るような動きなどは輝元の戦略眼のなさに起因する。更に家中の意思統一が出来ていなかったことが最大の失敗要因である。
(私は郷里の縁からずっと毛利氏を追跡しているが、大筋で著者の見解に同意している。)
⑫徳川家康(勝者)と大坂の戦い~戦国時代の終りを告げる戦いで、自分が生きている内に豊臣家を滅ぼしておきたい家康と、何とか時間稼ぎをして家康の死を待ちたい豊臣家の衝突である。
・家康はこの戦いで豊臣家を滅ぼし幕府政治を円滑にスタートさせた。豊臣家が滅亡したのは慶長20年(1615)5月8日家康が死去したのは元和2年(1616)4月17日その間は1年に満たない。豊臣家が「時を稼ぐ」方針を徹底出来ていれば天下の帰すうは分からなかった。
◉今日の一句
吾の無事を泰国(タイ)へと告げよ秋燕
◉健康公園のアレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)
花の後、「ひっつき虫」となり私の野鳥観察を悩ます大敵。



「合戦で読む戦国史」













































