ふるさと厚狭・沓(くつ)古墳

山口県に住む同級生から、山陽小野田市歴史民俗資料館で開催された講演会「山陽小野田の古墳と地域間交流」を聴講したとのことで、その折の資料コピーを送って頂いた。

山口県埋蔵文化財センターの職員の方が講師で、このブログでも何回か書いてきた厚狭の遺跡、長光寺山古墳や妙徳寺山古墳などを取りあげ、出土品や石室内の構造などの共通項から山口県内の他の遺跡と同様に、徐々に九州地域の影響を受けているとの講演骨子である。

山口県はその地理的条件から、現代に至るまで九州や朝鮮半島の色々な影響を受ける土地柄であり、ある意味当然のことかもしれない。

その資料の一部に私にとって懐かしい円墳の「沓古墳」が取りあげられていて、このブログに書かせて貰うことにした。

沓古墳は私の生まれた村・鴨庄の北隣にあり、鴨庄から沓地区へ抜ける道がJR 美祢線と交差する踏み切りの北約100mの田の中にあり、私の子供時代には田畑の耕作により墳丘周囲が削られて、封土も流失、石組の一部が露出していて荒れ放題という印象だった。

私の子供時代の記憶と合致する、昭和45年山陽町教育委員会発行「山陽史話一」に載る荒れ放題の沓古墳の写真、

この直ぐそばにこのブログでも取りあげたことがある厚狭川から取水する寝太郎堰(大井手)があり、この両者を結び付けて想像を掻き立てる風景になっていて、資料にも関連の記載があるが具体的な裏付けが有る訳ではない。

資料中に沓古墳が発掘調査されたとの記載があり埋蔵文化財センターに問い合わせし、平成6年(1994)9月3週間かけて行われたその折の短い記録を送って貰った。その要旨は、

・調査前の状態は古墳の遺存状態は悪いと予測された。水田が残存する際まで迫っておりその規模や本来の形状は不明(私の子供時代の記憶そのもの)。

・石室の多くは破壊されているが床面はよく残っていて、片袖式の横穴式石室である。

・出土遺物は銅釧(どうくしろ)、鉄製柄(つか)と鍔(つば)、多数の鉄鏃(やじり)、須恵器片

・銅釧は貴重なもので銅製の腕輪、直径7.3cm、周縁に刻み目、同じものが九州北部や朝鮮半島南部から多く出土しており、これらの地域との関わりが想定される。

・石室の形態、遺物などから沓古墳は古墳時代後期・6世紀頃の構築と考えられる。(長光寺山古墳、妙徳寺山古墳の構築から約150年~200年経過後)

発掘を終えて復元され現在は地域の教材にも使われているとのことである。

🔘古墳の被葬者の階層は一般に、古墳の形状、前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の順とその大きさによって決まるとされているが、そこからみるとこの古墳に葬られた人物は、この地域の村長(むらおさ)クラスではないかと想像される。

同級生に撮って貰った復元された現在の写真

🔘この沓古墳には、朝鮮半島百済(くだら)の琳聖太子(りんしょうたいし)が日本に亡命し、その後を追って来日した母親の聖明王妃(せいめいおうひ)が、この地で崩御されたその陵であるとの伝説があり、また厚狭鴨神社発祥の地とされる。

この伝説の背景には戦国時代に山口を地盤に西日本の雄となった大内氏の祖が琳聖太子だとする作られた家系伝説があり、この事を2021年7月11日と13日の2回「ふるさと厚狭・鴨神社と大内氏の伝説」として書いたことがある。

🔘余談ながら、現在沓と書く地名はもともと久津と考えられ、津の意味からも厚狭川河川交通の要地であったことを示している。

🔘今日の一句

 

菜園のトマト気になる強風(かぜ)の夜半

🔘健康公園の草むら、ネジバナ(捩花)名は体を表すというがこの言葉にピッタリの花、