ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し③

厚狭・妙徳寺山古墳の概要おさらい

送ってもらった現在の状況

場所:厚狭川の下流域、厚狭盆地を東南側から見下ろす標高35~40mの丘の上にある。

長光寺山古墳とは厚狭川を挟んでちょうど対称的に向き合う位置にあり相互の距離は僅か1,5kmであり、地図で確認するとそこに何らかの意図を感じざるを得ない。

この地は古代厚狭郡(現在の宇部市山陽小野田市域)の郡家(ぐんげ・郡役所)が置かれ、また江戸時代この地を治めた厚狭毛利家の居館があった郡(こおり)地区にも近い要地である。

古墳の麓(ふもと)には長門国鎮守を担ったとの社伝がある惣社(そうしゃ)八幡宮や、厚狭毛利家ゆかりの妙徳寺がある。

築造時期古墳時代中期前半・5世紀初

規模:全長約30m、後円部径約20m高さ3m強、前方部幅約13mーーー長光寺山古墳のほぼ半分の規模で、旧長門国で発見されている9基の前方後円墳の内最も規模が小さい。

全長1,77mの竪穴式石室に旧豊浦郡(下関市貴船)産の石材が使われている。

[主な遺物や副葬品]

厚狭図書館に保管されているその一部

人骨:竪穴式石室に僅かな人骨が残っており華奢(きゃしゃ)であることから若年16~18歳位と推定され、以下の副葬品などから女性とも考えられている。

捩文鏡(ねじもんきょう):捩り紐を糸で括ったような文様を持つ青銅の日本製の鏡

鉄刀子(てつとうす):ものを切ったり削ったり加工用途に用いられる工具で現代の小刀に相当する。

多数の勾玉(まがたま)管玉(くだたま):首飾りや腕輪などに用いられる、ヒスイ、メノウ、水晶などで作られた装飾品

土師器:文様の付いていない素焼きの容器

*ちなみに長光寺山古墳は明治14年(1881)に発見されているが、妙徳寺山古墳は平成2年(1990)国道のバイパス工事により発見された新しいもので、このとき尾根全域に弥生時代の住居跡等も見つかっている。

この為昭和59年(1984)発行の「山陽町史」には「山陽町(厚狭を含む旧町名)域では長光寺山古墳に続く首長墓的な古墳は見受けられない」と書かれており、妙徳寺山古墳の発見は厚狭地域の考古学的見地からすると画期のひとつと云える。

*次回明後日が最終回のまとめになる。

 

🔘今日の一句

 

知らせ来る里の代掻き今昔(いまむかし)

 

🔘園芸サークルの畑、ネモフィラと蜜蜂

ネモフィラとチューリップ