ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し①

知る人は少ないが、私のふるさと山口県厚狭(山陽小野田市)には二つの前方後円墳遺跡(長光寺山古墳、妙徳寺山古墳)があり、このブログでも書いたことがある。

その後4月5日と9日のブログに書いたNHKスペシャルのTV番組や、関連の幾つかの本を読み、それらの疑問点などを「山口県埋蔵文化財センター」へ直接問い合わせをしたり、厚狭図書館に保管されている発掘された副葬品をも視認したことで、これまでとの重複を恐れず今一度この遺跡のことを自身の学びの為にも整理して書き残しておくことにしたい。

今回はその中の前書きである。

一般に古墳時代は日本列島が初期的な国家を形成していく時代とされ概略以下のように区分される。

前期;3世紀中頃~4世紀末

・(239)卑弥呼(ひみこ)が中国・魏(ぎ)に使者を送る・(248頃)卑弥呼死す ・(250頃)箸墓(はしはか)古墳が築造され、以後前方後円墳が西日本各地に首長墓として採用される      ・(369)朝鮮半島百済(くだら)から七支刀を贈られる

中期:5世紀初~5世紀後半

・(413)倭(わ)の五王(4月9日のブログ参照)が中国・北宋(ほくそう)に使者を送る

後期;5世紀末~6世紀末

・(538)百済から仏教伝来・(600)遣隋使派遣

終末期:7世紀初~7世紀中頃

・(645)大化の改新 ・(663)朝鮮出兵白村江(はくそんこう)の戦い

ちなみに邪馬台国(やまたいこく)は3世紀前半に存在し、卑弥呼の死亡時期は3世紀半ばとされる。また5世紀は中国の歴史書宋書に書かれた倭の五王の時代で、ヤマト王権が強大になり統一王朝として確立したと考えられ、世界遺産にもなった「巨大古墳の時代」とも言われる。

一方4世紀は情報が極めて少なく「空白の世紀」とも言われるが、ヤマト王権が地方へ勢力を拡大していく成長期、過渡期とも考えられている。

古墳時代の首長の墓は前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の4種類がありこの順番に格上とされ、またその規模の大きさにも一定のルールがあったと考えられている。

現在卑弥呼の墓として最も有力視されているのが奈良県桜井市の全長280mの箸墓古墳で、これが3世紀半ばに築造されたとされる日本列島での最初の前方後円墳である。

大首長の葬送を前提にした前方後円墳は突如として誕生し、それまで各地にあった色々な墓の特色を集めて選択し、新たな意味を持たせて創造され体系化されたもので、日本列島内の中央や地方を併せた大きな力がこの誕生に働いていると考えられている。

(前方後円墳の誕生に向けて地方の首長も包含した円卓会議があったと説く歴史家もいる)

ヤマト王権は武力以外でも様々な影響を地方へ及ぼそうとしたと考えられ、そのひとつが葬送に於ける前方後円墳などの築造規格や鏡などの副葬品(ふくそうひん・共に埋葬される死後に必要と考えられた物品)の地方首長への配布である。

この事は前方後円墳が基本的に相似形であること、同じ型を使った副葬品の鏡が各地に分布していることなどによって裏付けられる。

前方後円墳では被葬者は基本的に後円部の墳頂下に埋葬され、前方部では葬送の祭祀が行われ、周囲に魔除けや儀礼などの意味を持つ埴輪などが置かれたと考えられている。

🔘今日の一句

 

木(こ)の間から明かりほんのり山躑躅(やまつつじ)

 

🔘近くの県有林の樹木の間に自生しているツツジの仲間(ヤマツツジ?)、中に踏み入ると暗い林のなかでツツジの咲いている辺りが明るく見える。