中断中のひとりごと・「邪馬台(国)はヤマトである」

月刊誌・文藝春秋の最新3月号に歴史学者・桃崎有一郎氏が画期的新説と銘打って「邪馬台はヤマトである」という表題のもと、こう着状況にある「邪馬台国はどこにあったのか」の論争に決着をつける勢いで記事を書かれている。

この記事は2023年に同氏が学術輪文として発表されている『邪馬台国畿内説の新証左ー「倭」「ヤマト」地名の相互転移と王業・諸侯国ー』を一般向けに説明したものであるらしい。

桃崎氏は元々古代や中世の法制、政治の関係史が専門で私も著書「武士の起源を解きあかす」などを読んだことで記憶があり、記事によると邪馬台国研究の門外漢ながら、専門の中国から日本に伝わった「礼」の研究の過程で糸口をつかんだとのことで、邪馬台国は現在の奈良纒向地域(纒向遺跡で有名)にあったという説を新しく補強している。

少し長くなるが自身の理解のためも含めて整理すると、斬新と思える説の骨子は以下の通り

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記された邪馬台国の地理情報(邪馬台国までの距離等)は教条的な儒教の世界観で書かれており、現実の地理情報として見ることに無理がある。

・邪馬台はヤマトの「音」を中国人がヤマダ、ヤマドゥのようなものとして聞き取り邪馬台と書いた。

・ヤマトという地名を表すものは三階層あり小さい順に、奈良盆地の東部大和郷のヤマト、現在の奈良県域を表す大和国のヤマト、日本国を表すヤマト、で漢字では日本、大和、大倭、倭などが充てられる。

・ヤマトはまず卑弥呼が治める小国の地名として生まれ、その後より大きい地域を指す用法を経て統一王朝全体を指すヤマトを生み出す拡大変化を生じた。

・一方「倭」は中国人が用いた漢字をそのまま国号に採用する形で、まず統一王朝全体を指す言葉として生まれ、後に小さい地域を指す縮小方向の変化を生じた。

・大和は大倭を好字に置き換えたもの(713年・好字令)で大倭は統一王朝のみに用いられた。この使い方は大隋、大唐といった中国に習ったもので中国と同じく、卑弥呼の時代には邪馬台国、奴(な)国、伊都国、など、律令制の時代には大和国山城国などの国を抱え込んでいた。

・中国では諸侯国の例えば「漢」を領有する王・漢王が統一王朝を建国すると国号を「漢」とする歴史があるが、大倭の場合倭という小国または地域は存在した形跡がない。

・倭という漢字がヤマトという日本語地名と結合した事実から考える倭=ヤマトなら統一王朝・大倭(ヤマト)は小国ヤマトから出発して天下を統一したと読み替えられる。

・この場合卑弥呼の母体邪馬台をヤマトと読む場合に限り矛盾が無くなる。

🔘最小単位のヤマトは奈良三輪山麓の纒向村の辺りであったという説が既にあり、最近の考古学で纒向遺跡箸墓古墳卑弥呼の故地であるとの説が報道を賑わせているなかで、素人目ながらこれらをつないで補強する有力な考え方ではないかと非常に興味を持って読ませてもらった。

大阪に住んでた折りは山ひとつ越えればヤマトであり古代史の地名にも親近感があったが、これを機会に神戸に居ても今後の展開も含めて楽しみにウオッチしていきたい。

🔘今日の一句

 

獺祭(だっさい)に負けじ机に書を散らす

 

🔘施設の庭で見つけたたった一本の小さなムスカリ注意していないと見過ごす大きさ。