ふるさと厚狭周辺の神功皇后(じんぐうこうごう)伝説

8月27日のこのブログの続き

4世紀半ばとされる仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)・神功皇后朝鮮半島に出陣してその地を服属させたとの「日本書紀」の記述は、西日本各地に関連した伝説として拡がっている。

例えば娘の住む岡山県倉敷には二万(にま)という地名があり孫から聞いた話では、神功皇后朝鮮半島に出兵するに当たり軍兵を募ったところ、二万人の兵が集まったことが地名の起こりだとする伝説を学校で教わったとの事である。

私のふるさと山口県厚狭周辺に伝わるのは朝鮮半島への渡海に用いる軍船に関わる伝説である。

『当時この辺りは樹木に覆われた地であった。その中でもひときわ大きくそびえた古いくすの木があり森かと思うほどであった。

この為この大木より北の里は昼でも暗く「真っ暗村」から現在の万倉(まぐら)へ、西の里はなかなか日の出が見えず朝日がさすのが遅くなり「あさかげ村」から厚狭(あさ)となった。

このくすの木で皇后は軍船を造ろうと計画されて多くが完成し渡海を成功させた。

この付近には造船に伴う船の道具などを作った「有帆(ありほ)」梶を作った「梶浦(かじうら)」などの地名が残り、くすの木があったとされる地域は船木(ふなき)、楠(くすのき)町などの名前が付けられた』

もとよりこれらは長い間の民間伝承で遺された伝説だが、4世記半ば頃から7世紀半ばまで、倭(わ)国は朝鮮半島に影響力を行使して新しい技術や人材を受け入れて国造りに生かした歴史は事実と考えられ、事実をふまえて想像を掻き立てるふるさとの無形資産と言えるのかも知れない。

🔘施設の庭に小粒の無花果(いちじく)が実を付けていた。
一瞬子供の頃のようにもいでそのまま食べてしまおうと思ったが、やはりそれは駄目だろうと思い直し、買って食べるべく家内のアッシーで近所のスーパーに行った際に見つけてきた。
子供の頃もいで食べていたあの懐かしい独特な味と感触がよみがえって来た。

【この味は 過ぎし年月(としつき) 無花果に】

庭の無花果

買ってきた無花果