中断中の独り言・ふるさと厚狭の前方後円墳①

古墳時代は3世紀中頃に始まり7世紀中頃まで続いたと云われる。その最盛期は4世紀後半から5世紀後半であり、この時期に築造された古代日本の大王たちの墓群は「百舌鳥古市(もずふるいち)古墳群」として世界遺産に登録されている。

私が大阪に住んでいた頃、ゴルフ場の行き帰りに古墳群に含まれる大規模前方後円墳を見てその大きさに圧倒されたものである。

山口県に住む中学同級生が、山陽小野田市で開催された山口県埋蔵文化センターの「古墳時代山口県山陽小野田市古墳文化」という講演会に参加されたとのことで、参考にとわざわざその資料を送って貰った。

この機会に、あまり知られていないふるさと厚狭(現在山口県山陽小野田市厚狭)に遺された前方後円墳遺跡について書き残しておくことにしたい。

古墳時代の最盛期は前方後円墳の時代であり、大和政権が支配地域を拡大し古墳文化畿内から地方へと波及していった時期と重なり、前方後円墳の規模の大小が地方豪族の被葬者の階層的優劣関係を示すといわれる。

更に前方後円墳は他の前方後方墳、円墳、方墳などに対しても優位を示す。

厚狭にはこれまで二ヶ所の前方後円墳が発見されており早くからの中央との深いつながりを示している。

長光寺山(ちょうこうじやま)古墳と妙徳寺山(みょうとくじやま)古墳の二ヶ所である。

講演会資料より転載(山口県内の主要古墳分布)

厚狭は中国山地の一角・美祢(みね)に源を発する厚狭川が中央を貫流して瀬戸内海に注いでいるが、ふたつの古墳があった郡(こおり)地区はその下流域で、両者は川を隔てて向かい合う位置にある。

郡の地名は古代厚狭郡の郡役所が置かれた地を表し、江戸時代一帯を給領地にした厚狭毛利家もこの地に居館を置いた。このように前方後円墳が築造された場所は海川への交通の要地でありこの地域一帯を統治するうえでも格好な地であることを示している。

「百舌鳥古市古墳群」が大陸からの使節が大阪湾から上陸して大和に向かう折り、必ず目にする位置に築造されていることに着目すると、厚狭の前方後円墳も大陸からの渡来人が関門海峡を越えて上陸しようとすると必ず目に入るような位置に築造されているように思われる。

(厚狭川の上流には朝鮮半島からの渡来人伝説の残る円墳・沓古墳が遺されている)

続きは次回に

🔘今日の一句

 

甘薯蔓畑(はた)を這い逃げフェンスまで

 

施設の園芸サークルの畑では甘薯(かんしょ・サツマイモ)が良く育ち蔓が側溝を越えてフェンスまで達している。

甘薯は痩せた土でも育ちやすい生命力ある植物で、蔓が蔓延りそこで根を張るのでイモを大きくするためには蔓返しという作業が必要になる。