ふるさと厚狭に遺された前方後円墳

近所の図書館へ行くとたまたま県史シリーズで「山口県の歴史 」山川出版社刊 が目に止まり借り出した。
この中の古墳時代の記事を参考にしながら、「宇部・小野田・美祢・厚狭の歴史」郷土出版社刊、「山陽町史」山陽町教育委員会発行、などを併せて厚狭の前方後円墳について書いておきたい。

前方後円墳はよく知られているように四角の方形と円形を併せた独特の形をしておりヤマト政権の大王の墓から発出してその小型版が日本全国に分布しヤマト政権の地方への影響を表すとされる。

大型の前方後円墳・大王の墓が集まる大阪の百舌鳥・古市古墳群が先日世界遺産に指定された。

厚狭の前方後円墳は現在のところ2箇所何れも厚狭川の下流域で発見されている。
長光寺山(ちょうこうじやま)古墳
厚狭川の西側、厚狭毛利家の菩提寺の洞玄寺(とうげんじ)は毛利家入部以前は長光寺と呼ばれており、その洞玄寺の近く西南方向にある。全長61m 築造は4世紀後半と推定され地方の大首長らしい規模である。
・山陽町史に載っている測量図、柄鏡形状の前方後円墳であることが分かる。
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副葬品には三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など明らかに中央からの下賜品と見られるものがある。
当時ヤマト大王政権は朝鮮半島南部で生産された鉄を手に入れることがその優越性を保つ上で極めて重要になっており、その海上交通路を確保するため瀬戸内海に面する地方の首長と結ぶことは大切であったと考えられている。

妙徳寺山(みょうとくじやま)古墳
厚狭川の東岸、丁度長光寺山古墳の対岸にあり、これも厚狭毛利家と縁のある妙徳寺の奥東側に位置する。
全長は30mと長光寺山古墳に比べると規模が小さく築造は4世紀末と考えられている。

この古墳については国道のバイパス工事で平成2年(1990)に発掘されたもので、昭和59年(1974)発行の「山陽町史」には当然ながらその記述が無い。
山口県の歴史」にはこの古墳についての面白い記述があり以下にその要旨を書き出しておく。

『この古墳の被葬者は華奢な四肢骨から若い女性と思われ、美しいメノウやヒスイで作られた玉の首飾り、手飾りで身をかざっていたが武器は一切所持していない』

山口県下には古墳時代の半ばに築かれた4人の女王の墓が確認され何れも小規模な前方後円墳である。巨大な地方権力者というより女性の王墓のたたずまいがあり、かつての卑弥呼のようなシャーマンのイメージがある』

『古代国家体制の激動の歩みのなかでこの地はひとときの安堵の時代を4人の女王に託していた。「女王の世紀」と呼べる時代を持つ地域は現在のところ山口県域だけである』

◎この郡(こおり)、下津(しもづ)辺りは古代厚狭郡の郡家(ぐんけ・古代の役所)があった場所に近く海・川の交通の要地で、また海から内陸部に至るネックに当たる。このような場所に大型の古墳が存在するのは厚狭の地理を知るものからすると当然のようにも思える。

◎古代、自分の生まれ育ったふるさとの土地にも東アジアやヤマト王権とつながる歴史があり、卑弥呼と同じような女王が統治した集団があったと想像出来るのはとても貴重で有難い事かもしれない。

◎厚狭川の下流域、郡、下津辺りの地図
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◎今年初めてのダイコンの収穫、形の良いのが採れた。
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