ふるさと厚狭の寝太郎物語①

私のふるさと山口県厚狭郡山陽町(現山陽小野田市)厚狭には3年寝太郎伝説が残されている。
厚狭の出身者には心のよりどころのひとつになっており、大阪在住の同級生から、一度寝太郎のことをこのブログに書いて欲しいと頼まれ書き始めている。

・50年以上前に造られたJR厚狭駅前の寝太郎像、紅い実はクロガネモチ

3年寝太郎、もしくは寝太郎は日本昔ばなしの中でもよく取り上げられ、私の娘が小学校の頃は国語の教材としても使われていた。
その大筋は周知のとおり、ものぐさな男が長い間寝ている間に考えて、干ばつで苦しむ村を救うため川をせき止め、水を田畑に導くことになっている。
最近ではこれに加え佐渡へ渡りワラジについた金(きん)を回収して資金にする話まで付け加えられており、面白い反面、実際の歴史からかけ離れてしまいそうで少々寂しい。

民俗学者として著名な柳田國男は「寝太郎の話が始終旅をして全国あちこちに伝説化、土着している」と述べている。

然し他の各地にある伝説はその裏付けとなるものがあまりなく、いわば話だけのものが多いが、厚狭の場合は、灌漑(かんがい)による土地の開拓という現実があり、それによって作られた千町ヶ原(ちまちがはら・せんちょうがはら)という総面積380haに及ぶ広い美田が出来上がった。

私が子供の頃、実家の墓地がある高台から眺める千町ヶ原は見事な拡がりの水田地帯であった。
今はかなりの部分で住宅地になりまた耕作放棄地も多く、かつての面影はないが、それでも往時を偲ぶことは充分できる。
・町の東側、物見山(ものみやま)から見渡す現在の千町ヶ原の一部、かなりの部分が宅地に転用されている。

この灌漑・開拓は、中国山地を発し、厚狭を貫流して瀬戸内海に注ぐ厚狭川をせき止めて、その流れの一部を引き込み荒れ地を水田に活用するもので、厚狭川中流の西側一帯がその恩恵を受ける大規模なものである。
・現在の厚狭川の流れ

厚狭川に設けられた堰(せき)は昭和38年(1963)に現在のコンクリート製の頑丈なものに作り替えられたが、これは洪水で流された旧の堰を再建したもので、流され半壊状態の堰の土台は私の記憶にしっかり刻まれている。
・現在の寝太郎堰・大井手

旧の堰は大きな木で造った枠を川の底面に沈め、石を置いて固定して堰とした石張溢流堰(いしばりいつりゅうせき)と呼ばれる工法で、必ずしも初めて作られた当時のものと同一とは言えないが、人力でこれを成し遂げた先人の労苦が子供心にも充分迫って来るものであった。

現在では寝太郎堰の名前も使われているようだが、私たちの子供時代は大井手(おおいで:大きな水の堰を意味する)と呼び習わしており、今でも地元ではこの名前が一般的に使われている。

設備やインフラにとってメンテナンスは何より大事なことで、この堰も時代を通じ逐次保全補修が行われていたようで、江戸時代厚狭一円を領していた厚狭毛利家が所領内での出来事などを記した「代官所日記」を読んでいくと、度々大井手の普請(ふしん)のことが書かれている。

例えば文久2年(1862)4月22日の記録に
「大井手がこの間の水(洪水)で(村々から)破損の申し出があり、役人が出張検分し、普請をすることになった。厚狭、山川、鴨庄、郡(こおり)各村の相(共同)普請ナリ」
と書かれており、この堰が近辺の村々にとって誠に重要で、自分達で守り継いできた歴史がよく分かる。