ふるさと厚狭の寝太郎物語②

5月7日の続き

厚狭川の寝太郎堰(大井手)から分流した水は用水路を通じて、厚狭川西側の、上流鴨庄地区から各地域を経由、下流の広瀬地区まで広く行き渡るようになっている。

現在寝太郎用水路と呼ばれる水路は、鴨庄に生まれた私が子供の頃は幅2m程度で、川岸は石積み、夏は蛍が飛び交っていた。
この用水路は田に水を引き入れる時期の前4月頃、年に一度水の流れを遮断して、川の底を浚え、周辺を掃除する行事が定期的に行われていた。
この日は大人は共同作業、子供は干上がった水路で魚取りと決まっており、川岸が石積みの為石の間に結構大きな魚が隠れており面白い、楽しい1日であった。

用水路は寝太郎伝説の通り元々農業用だが、かつては生活用水としても利用されており、水路に面した家では川の一部に庇(ひさし)を張り出し洗い場が設けられていた。
私の生家のように水路から10m程度離れている場合でも直近部に階段があり野菜などを洗っていた。

昭和40年代に用水路はコンクリート造りと変わり、今まで水路がカバーしていなかった山際に当たる山川地区にも分流されるようになり、寝太郎の恩恵がさらに拡がった。
現在の鴨庄地域を流れる用水路

用水路途中の分流水門

用水路がコンクリート造りになった現在でも年一回水路掃除の行事は非農家も含めた住民総出で続いており今年も4月18日に行われたそうである。

またこの用水の利用には「大井手水利組合」が結成され各地区の利用調整管理が現在まで共同で営まれている。

用水路の下流、千町ヶ原の中央部(旧沖田村)に寝太郎を祀ったとされる寝太郎荒神社が鎮座している。
現在の荒神社と石祠

ここの石祠は記録によると寛延3年(1750)広瀬村の百姓によって建てられたとされるが、これより60年前の元禄4年(1691)には既に「千町に荒神」の記録がありこの両方ともにこの時点では寝太郎との関わりは全く伺うことが出来ない。

然し天保13年(1842)の防長風土注進案には「荒神堂 沖田村」「祭神壱座 寝太郎荒神」として記録があり、この時には既に寝太郎伝説が入ってきている。
すなわち寝太郎ばなしがふわりふわりと旅をして厚狭に着き、実際の灌漑開拓事業と先人への感謝の念がしっかり結び付いて伝説となったのは、江戸時代中期頃と考えられる。

この荒神社の境内には、昭和14年この地方を襲った大旱魃(かんばつ)にもかかわらず、この一帯寝太郎大井手水掛かり(千町ヶ原)だけが満作であったとする感激、感謝を旱魃記念碑として一本の石柱にしっかり刻んだものが残されている。
旱魃記念 自昭和十四年六月廿二日至同年九月十一日迄晴天  大井手掛ノミ満作」

旱魃記念碑