このブログに厚狭毛利家の家祖・毛利元康のことを書いてきたが、どうしても豊臣秀吉が始めた文禄・慶長の役いわゆる朝鮮出兵での活躍に触れることになり、そうなると身びいきで毛利元康の奮戦や日本軍の活躍を書いてしまう。
然しどう考えてもこの戦いの日本側には正当性がなく、秀吉晩年の汚点とも言え、これが起点になって豊臣家が滅んだと考える歴史家は多い。
日本軍が朝鮮半島に上陸した当初は、韓流ドラマによく描かれているような、当時の李氏朝鮮王朝の失政で、苦しんでいた民衆が喜んでこれを迎えた面もあったようだが、時が経つと侵略者として、国を挙げての抵抗を受けることになる。
本村凌二著「世界史の叡知ー勇気、寛容、先見性の51人に學ぶ」中公新書 のなかにこの戦いで朝鮮の英雄とたたえられている「李舜臣将軍」が51人の一人として取りあげられており、バランスを取る意味からもこのブログに書いておくことにした。
陸戦では戦国時代の激戦を経験し大量の鉄砲を使う日本軍が有利に戦いを進めたが、侵略を受けたことで結成された義軍や、中国・明の援軍で状況に変化が現れ始める。
中でも幼友達の宰相の推挙で水軍司令官となった李舜臣は日本水軍を圧倒し制海権を確立、渡海日本軍の補給を脅かした。
当時の朝鮮側の残された記録では李将軍の活躍を次のように記している。
「戦士や、漕ぎ手はみな船内におり、左右前後には火砲を多く載せ縦横に動きまわること梭(ひ)のようで、賊船(日本船)に遭遇すればいっせいに大砲を放ってこれを打ち砕くものであった。ーーー賊船を焚焼(ふんしょう)すること数知れなかった」
・朝鮮の軍船は亀甲船(きっこうせん)と呼ばれる装甲を施していたようで大砲も装備していた。
・梭とは織り機でたて糸の間によこ糸を通す道具で、俊敏に動く様を表している。
この朝鮮の役は秀吉の死去で終わるがその直前、最後の海戦で李舜臣将軍は日本軍に狙撃される。
その最期の言葉は「戦いの最中だ、自分の死を知らせるな」であったとされる。
どこの国、どこの民族にも救国の英雄が存在する。
◎我が家の横で育てている紅いバラが咲き始めた。
真っ赤なバラは加藤登紀子さんの「百万本のバラ」をすぐに思い出すが、音痴の身には歌いこなすのが難しすぎる。
「世界史の叡知」