「戦国武将三澤氏物語」⑤厚狭へ

7月31日の続き

天正17年(1589)豊臣秀吉に従属した毛利輝元は中国八ヶ国の太守として広島城を築城して吉田郡山(よしだこうりやま)城から移ることになる。

三澤氏第十代為虎はこの際、築城指南役を命ぜられ、家臣100人卒600人を引き連れ奔走した。後に輝元検分との達しがあり出迎えたところ突如毛利の軍勢に取り囲まれ、12万石とも云われる旧領を没収され厚狭郡に於いて1万石の新領を与えられた。

為虎は一戦か自刃かと迷ったが家臣の諫言で自重したと伝わり、旧領へ帰ることが許されずそのまま厚狭郡に下向、惣社八幡宮の社地屋敷に入ったと伝わる。

為虎は毛利の宿敵・尼子氏第4代晴久の娘が母親といわれ、私はこの辺りに毛利氏が疑念を持った根源があるのではないかと考えている。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに際し為虎は従軍を強く望んだが許されず、赤間関(下関)の守備に配された。戦後毛利氏が防長二州に削減されると為虎は旧領厚狭郡1万石の内、山野井、福田、大持、小埴生4村のみ700石を拝領、身分も長府藩祖・毛利秀元の家臣(陪臣)とされ長府に居を移した。

秀元は三澤氏との旧誼(きゅうぎ)を重んじ豊浦郡で2000石を与え都合2700石取りの重臣として三澤氏を遇した。

慶長17年(1612)長府で死去した三澤為虎は私のふるさと厚狭に歴史を刻んだ人物だが、厚狭毛利家の祖・毛利元康とも重なる激動の時代を生き切った戦国武将の波乱の生涯であった。

🔘一日一句

 

水彩で気まま塗り替へ夏の潮

 

🔘垂水図書館の入り口前、画像検索では熱帯の観葉植物アンスリウムと思われる。