出雲国(いずものくに・島根県)月山・富田城(がっさんとだじょう)を本拠にして中国地方に覇をとなえ、大内氏や毛利氏と存亡をかけて戦国時代を争った尼子氏を研究追跡した書である。
毛利元就の生涯かけての強敵で、毛利氏を追求すると必ず突き当たるのがこの尼子氏であり、私も子供の頃から名前を覚えていたが、その内実については知らないことが多くこの本で多くの知識を得ることが出来、ここ一年くらいのスパンで云えば一番収穫のあった本かも知れない。
尼子氏を中国地方の雄といわれるまでにしたのは出雲尼子氏三代・経久で、出雲国守護代から身を起こし最大版図は出雲、隠岐、石見(島根県)伯耆、因幡(鳥取県)美作、備前、備中(岡山県)備後、安芸(広島県)播磨(兵庫県)の十一ヵ国に及ぶ。
その強大な尼子氏も、早くに戦死した父を継いだ経久の孫で四代目となる晴久、その子五代目義久となり、毛利元就の攻撃でついに月山富田城を開城、尼子氏は滅亡する。
この間の興亡を語るには字数が足りないので、私自身の収穫、新しい知見になった二つのことを書くことにする。
①尼子氏の出自がよくわかった。
南北朝時代、近江国(おうみのくに・滋賀県)を本拠に婆娑羅(ばさら)大名として有名になった近江源氏・佐々木道誉(どうよ)は出雲守護にも任じられた。
孫の高久は近江国尼子郷(滋賀県甲良町)に住んで尼子氏を称した。高久の子・持久は出雲守護代として出雲に移住、出雲尼子氏初代となる。
持久の孫が三代経久でこの時代に下克上から戦国大名として大飛躍を遂げることになる。
②毛利氏に臣従した三沢氏の事がわかってきた。
関ヶ原合戦の前、私のふるさと厚狭一円を領した三沢為虎は関ヶ原合戦後禄を減らされ、長府毛利家の祖・毛利秀元の家臣となるが、この経緯から厚狭の山野井村等が長府毛利家の飛び地になった経過がある。
三沢氏は出雲国仁多郡三沢郷を本拠地とした有力国人で尼子氏二代清定の時代に早くも戦いを交え、三代経久の軍門に下った。
出雲国尼子十旗と呼ばれる月山富田城の外郭防御網の第二が三沢氏の要害山・三沢城である。
その後毛利元就の尼子氏討滅により毛利の臣下となるが、厚狭一円を領した三沢為虎は主君・毛利輝元と不仲であったとされ、このかつて尼子氏の臣下であった経歴のなかにその不仲の遠因があったのかも知れない。
(三沢氏については以前からフォローしているが、最近関連した本が地元で発行されていることがわかり何とか入手出来ないか調べている)
🔘健康公園のムラサキツメクサ