「安芸毛利一族」

「安芸毛利一族」河合正治著 吉川弘文館刊を読み終えた。
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私は山口県厚狭の生まれなので藩政時代は毛利氏の治世下であり、更に厚狭地域は厚狭毛利家と言われる毛利元就八男元康を家祖とする毛利一門家の知行地であったことから、今まで自分の郷里に対する興味から沢山の毛利家に関する書物を読んできた。

その殆んどは毛利家を中国地方の覇者に押し上げた毛利元就以降の事を著したものだが、この本は一族発祥の頃から、元就に至るまでも含めて史料を元に記述されており、時代を遡って毛利一門を知る上で参考になる。

・毛利氏は公家の出自で源頼朝鎌倉幕府を開いた際の創業功臣、政所別当大江広元から出ており元就自筆の大江家系図も存在し、例えば毛利元就墓所には大江朝臣(あそん)元就と刻まれている。

・毛利の苗字を最初に名乗ったのは大江広元四男季光で父からその地頭職を譲渡され相模国(神奈川県)毛利荘(現在の厚木市一帯)に土着して武者としての性格を強め在地名によって毛利を称した。

・季光は後鳥羽上皇が起こした承久の乱、鎮圧の勲功として毛利荘の他、越後国(新潟県)佐橋荘と安芸国(広島県)吉田荘の地頭職も兼ねる。また幕府評定衆にも名を連ね幕府のトップを形成する。

・季光は三浦家から妻を迎えていたが、幕府執権北条時頼の時代、北条氏と三浦氏の争いいわゆる「三浦合戦」が起こり敗北した三浦方に与した季光は討ち死に、この時越後の所領に出向いていた季光四男経光を除き毛利氏一門は全滅する。

・経光は三浦氏とは無関係であった事から、佐橋荘と吉田荘の領有を安堵され本拠を佐橋荘に置く。

・その後鎌倉幕府の滅亡、争乱を経て時の毛利家当主時親は混乱の時代を乗り切るため建武3年(1336)一族を集住する決断を行いその地を安芸吉田荘とする。
世は南北朝争乱、感応の擾乱と続く混乱期であり、名目だけの地頭ではいつ周辺から侵略を受けるか知れず力の分散を止めて一族を結集して土着し、その地の経営と拡大を図るべく吉田の地を選択したと思われる。

・安芸吉田に一族が集結後も周辺豪族との闘争、一族内部の争い等を幾度もくぐり抜け、大永3年(1523)毛利宗家を元就が相続することになる。

その後毛利一族が長い動乱の時代や武家社会を生き抜き、遂に明治維新まで存続した事を考えると、その主たる要因は何であったのだろうか? 幸運、決断、結束力、、、
私の中では、毛利時親による吉田荘への一族集住決断こそがキーポイントと思える。

図書館近くで咲いている小さな花
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