厚狭の隣村万倉の領主・国司信濃①

私の故郷、山口県厚狭の東の山を越えた隣が今は宇部市の一部になっている万倉(まぐら)で、父方の親戚もあり馴染み深い村と言えるが、この地域を藩政期を通じて知行地としていたのが長州藩寄組(一門の次に位置する上級家臣集団)の国司(くにし)氏である。

全くの余談だが、万倉には面白い地名伝説があり、江戸時代に編纂された「防長風土注進案」によると、〈往古この地の近くに楠の大木がありこの為、大木の蔭で一日中真っ暗であったため真暗転じて万倉となった〉というものである。

国司家は室町幕府将軍家足利氏の執事などを勤めた高師直(こうのもろなお)と同じ高(こう)氏の出自で安芸国(広島県)国司荘を所領としたことから国司姓を称し地縁から毛利氏に服属、毛利元就の嫡男隆元の傅役を勤めるなど家中で重きを成した。

関ヶ原の後、毛利家防長二州移封により当初徳地(現在山口市)を領したが毛利秀元が主導した寛永の総知行替えで5600石の万倉周辺を領することになり以後明治まで続く。

山口県広島県では比較的国司姓が他の地域比べると多く子供の頃、近所にも国司姓が有った。
私は、国司(くにし)姓は律令制の地方長官・国司(こくし)と何らかの繋がりがあるのではないかと思っているのだが残念ながら未だ確証を得ているわけではない。


幕末の国司家当主、親相(ちかすけ)は信濃と称し同じ寄組の高洲家から養子に入ったが幼少より英明と言われ、文久3年(1863)下関攘夷戦争では、厚狭毛利家世子・毛利宣次郎から赤間関(下関)総奉行を24歳の若さで引き継いで久坂玄瑞等と共に外国船打ち払いに活躍した。

武家の軍法では戦場に近い所に領地を持つものがその前線に立つのが原則であり長州藩のなかで下関(馬関)に近い一門家・厚狭、次いで万倉領主が資質を見込まれて総奉行を拝命したと思われる。
(当時下関は大半は長府藩清末藩の領地で勿論両藩も戦闘に参画した)

この後国司信濃は力量を見込まれ長州藩家老職まで累進して藩の危急存亡に直面することになる。

長州藩の家老職は重要書類に加判するため加判役と呼ばれ、この集合体が最高の藩行政府となる。加判役は厚狭毛利家等の一門衆六家、永代家老二家(福原、益田)が永世でこれに当たるが、この八家が老、若や事故などで欠ける事も多くあり、声望や功の有るものが一代家老として務める事も認められており、国司信濃の場合はまさしくこれに当たる。

ウオーキング途中の桜並木に違った木が一本、桜に代わり満開
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