厚狭毛利家代官所日記㊾慶応2年(1866)③藩主家との繋がり

厚狭毛利家の民政などを記録した慶応2年10月9日の日記

『若殿(長州藩世子・毛利元徳(もとのり))様先達て伊佐(いさ・現在美祢市)を通り馬関(ばかん・下関)へお越しになった処、昨夜吉田(現在下関市)へお泊まり今日船木(ふなき・厚狭毛利領)にてお昼をとられ山口へお帰りになるとのこと。

(当時長州藩政の中心は萩から山口へ移っていた)

(ご機嫌)お伺いとして旦那様(厚狭毛利家当主・元美(もとよし))が船木迄お出掛けになる。御奥様(夫人・勅子(ときこ))にも内々にお会いになる為今朝より船木迄お越しになることになった。』

🔘藩の世嗣ぎである若殿様が戦地を巡検されるに当たりその地を預かる領主の厚狭毛利家当主が挨拶に出向くことはごく当たり前のことだが、その奥方までも罷り出るのはあまり例がない。

これは本藩世嗣ぎ(毛利敬親の養子)の元徳も厚狭毛利家夫人・勅子も第8代徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の実子であることによる。勅子からみると元徳は異母弟になる。

長州藩内戦で敗れた俗論派に与した厚狭毛利家が謹慎処分のみで赦された背景には、厚狭毛利家が一門六家の内の第三席であったと言うことと、勅子を通じた毛利本家との繋がりが有ったものと想像される記述である。

それだけに四境戦争では汚名挽回に邁進せざるを得ない面が有ったものと思われる。

*徳山毛利家から厚狭毛利家に嫁がれた勅子女史には同母兄に禁門の変で刑死した福原越後がいる。また女史は明治6年に山口県で最初の女学校を創立して自ら教壇に立ち女子教育のさきがけを担った。これらのことをこのブログ2020年3月12日の記事「厚狭毛利家⑭毛利勅子女子」として書いた。

 

【家移りも 香り変わらぬ 水仙花】

 

🔘施設の庭、水仙が咲き始めた。