厚狭毛利家代官所日記㉗文久2年⑨激動の前触れ

隣国の眠れる獅子・「清」国が英国に完敗したアヘン戦争(1840~42)は我が国の海防意識を一挙に高めたが、3面を海に囲まれた長州藩でも例外ではなく大調練(軍事演習)を行う等海防体制に注力していく。

厚狭毛利家は要衝・下関に給領地が近いため、早くから下関の防備担当とされ、朝廷と幕府が一致して定めた攘夷決行(外国船を討ち払う)期日・文久3年(1863)5月10日の時点では当主・元美(もとよし)は赤間関(あかまがせき・下関)海防総奉行として厚狭毛利家家臣や萩藩士を率いて出陣し討ち払いを指揮することになる。

このような状況下、民政を記録した代官所日記にも文久2年ごろからこの騒然とした民情をうかがわせる記述が見え始める。

文久2年(1862)5月5日の記録
吉田勘場(萩藩吉田宰判の役所)から要求のあった、異変(外国船来航等)があった場合の物資運搬用人馬を引き当てて置く件。
先日領内庄屋へ指示があったが、厚狭毛利でも必要になる(当主が役職に就いている)ので断りを入れさせたところ、天保15年の際は引き受けて貰っており今回も引き受けて貰わなければならない。
もしどうしても断るなら萩表に申し出て貰わなければ勘場ではどうにも出来ないとのことで、追々考える必要がある。

6月28日の記録
異変の折の人馬の件
健常者10人につき2人宛て出すのは弘化2年も同様であり是非にも引き受けるよう再度申し入れがあった。
評議の上どうしても断ることとした。
異変の折には厚狭毛利家でも人馬は不足で厚狭下津(しもづ)、郡(こおり)、の両村については除外するよう庄屋から書面で断るよう指示した。
併せて同様の趣旨を萩の遠近方(おちこちかた・担当職位)へも断るようにした。

この後同様の申し入れが船木勘場からもありこれも同様に断ったと記されている。断りはなし崩し的に認められたようで、厚狭の村々と船木の村々すなわち給領地内は厚狭毛利家から直接動員が掛かることになる。

その後の記録で、各々健常者20歳~50歳までの男子の人数調査があり厚狭は郡村、下津村、梶浦で計256人、船木は逢坂村、船木村で計530人、合わせて786人が動員の対象として登録され、下関攘夷戦争へと徐々に緊張が高まる。

先のブログでも触れたが相変わらず梶浦の村役人から、下関を通過する外国船の通報が代官所に逐次寄せられている。

◎幕末の激動期、TVや映画では侍たちが華々しく活躍することが常だか、この事例で分かるように結局少数の武士だけで成り立つものではなく、全体を支えているのは圧倒的多数の百姓町人である。
このような積み重ねが奇兵隊などの長州藩諸隊の創設につながるのだろう。

◎この事例のように長州では萩本藩と分家を含む給領地の領主との2重行政になっており、この後の軍制改革で庶民の動員も含め本藩が統一指揮する体制に改まり、四境戦争、戊辰戦争を戦い抜くことになる。

◎冬のホトケノザ、花は少ないが茎葉はしっかり繁茂している。