長州藩民政の固有の言葉

昨日はふるさとを領地とした厚狭毛利家の記録「代官所日記」の一回目を書いたが、同様な長州藩の史料などを見ると他藩にない、長州藩独自の名称が頻繁に出てくる。その中の言葉を気付いた時点で順次書き留めたい。

①宰判(さいばん)
長州・萩藩では藩内を18の行政区に分けて統治し宰判と呼びそれぞれを代官が統治した。
明治維新後政府の要職を占めた長州閥が裁判所の発足に当たりその語源に用いたとされる。

厚狭毛利家の領地の内、厚狭地域は吉田宰判、船木地域は船木宰判の管轄となる。

各宰判を統括する代官は平常は萩の郡(こおり)奉行所に出勤、春・秋の40日間と冬10日間は各々の代官所(勘場)に出張した。

宰とは取り仕切る、つかさどる。
判とは別つの意味。

②勘場(かんば)
宰判や厚狭毛利家等の大規模給領主毎に設けられた地方役所で代官以下、勘定方、寺社方、山方、普請方などの役人が出勤し地下(じげ)役人や手子(てこ)と呼ばれる助手役と共に民政全般を管轄する場所になる。

勘とは考える、調べる、罪をただすの意味

③畔頭(くろがしら)
庄屋の下に置かれて、一村を数組に分けその組・集落の長となる。庄屋の相談役でその組の年貢、戸籍等の住民生活全般に責任をもった。

畔(くろ)とは「あぜ」とも呼ばれ田と田の間の少し高くなった境界のこと。

「明治二年の一揆」と呼ばれる、戊辰戦争後の諸隊脱退騒動とも絡んでふるさと厚狭地方をも巻き込んだ大一揆は、美祢宰判・岩永村の畔頭が、年貢の収納に規定以外の枡を使ったことで農民の不満が爆発、年貢の減額、役人の罷免などを要求した事が発端で大規模化した。

この事からも村落の現場に於ける畔頭の重要性が良く分かる。

☆☆何れの独自の名称も、良くその内容や役割を的確に表現しており、長州藩は全国各藩の中でも書類や史料が整備されている指折りの藩であることを裏付けている気がする。

◎昨日はホームコースのメンバー4人で大阪富田林市内のゴルフ場でコロナ対応ゴルフへ、梅雨の晴れ間の幸運に恵まれた。
スコアーは45、45、トータル90で目標1打オーバーで残念。
ゴルフ場から見る金剛山

ゴルフ場から見る二上山