厚狭毛利家代官所日記㊹慶応元年②厚狭毛利家当主の処分①

元治元年(1864)から慶応元年(1865)にかけての幕末長州藩内の混迷期、政争や内戦を当時の厚狭毛利家当主・毛利能登(元美)と嗣子・宣次郎は、幕府寄りの姿勢をとる俗論派政権で加判役(家老職)や内戦時の総指揮官(撰鋒隊総奉行)を勤めていたことは順次このブログに触れてきた。

内戦の結果を受け慶応元年2月9日の萩城御前会議で〈防長一和・武備恭順〉の藩論が確定、以後揺らぐこと無く正義派(反幕府)政権が続き、厚狭毛利家当主などの俗論派は失脚した。

通常こういう場合失脚した派閥のトップは概ね死罪となるのが常だが、その後の記録には厚狭毛利家当主と嗣子の二人共に生存しているのが確認されている。

一体この時の厚狭毛利家への処分はどうなっていたのか長い間疑問を持ち続けていたが、少しサボリ気味だった代官所日記を読み続けるなかで、その解答にようやく出会うことができた。個人的なことながらとても嬉しい瞬間である。

この年の閏(うるう)5月20日から関連する記録が出始めるが、色々と長くなるので要約すると

・当主親子(実際は異母兄弟)は藩から謹慎処分で済まされている。

・第二次長州征伐(四境戦争)に挙国一致で対応するため領内の軍事訓練を徹底するよう、藩政府のある山口から厚狭への帰還が当主のみに許された。

・お供として干城(かんじょう)隊士2名と下役2名計4名が厚狭に来たため厚狭毛利家居館に近い杣尻(そまじり・集落名)に宿を提供、厚狭毛利家臣が挨拶に出向いた。

〈干城隊は幕末奇兵隊に始まる長州藩諸隊のなかで唯一の藩大組士(おおくみし・上士階級)で構成された隊であり、監視役として一門の厚狭毛利家当主に付き添わせるのが他の庶民も混じる諸隊士より適当と藩政府が判断したと思われる〉

・厚狭に帰還後当主は家臣、寺社、地方(じかた・村々の役人)に対し直筆の布告を出し家老などを通じて徹底させた。その内容は

『先般藩主より書き付けが出された通り国難(四境戦争)が差し迫っており士気を高め文武に励み一致報国の覚悟が肝要である。心得違いのものがあれば厳しく咎める。詳しくは老職より申し渡す』

とある。

長くなるので続きは次回に。

 

郷土史の 疑問が解けて 咳(せき)噎(む)せる】

 

🔘施設の玄関先の花壇、3基