厚狭毛利家代官所日記㊷元治元年(1864)嗣子の誕生

今まで書いてきたようにこの頃長州藩の内戦で厚狭毛利家当主が俗論派の旗頭になったが、内戦は敵対した正義派諸隊の勝利で終わり、厚狭毛利家は逼塞(ひっそく)に追い込まれた。

この厳しい状況下、厚狭毛利家に世継ぎが誕生する。

元治元年12月27日の記録

『若旦那様(養嗣子・宣次郎)御内用の女中平座なり、御男子様御誕生に成る処、思し召しにより旦那様(当主・能登)御養いとして御名を英之輔様と称される。末々に至るまで英の字を用捨のことを地方(じかた)まで沙汰すること』

(毛利宣次郎に男子誕生、母は武士階級ではない。当主・元美の養子として英之輔という名が付いた。この為領内では英の字の名前を用いないよう徹底する)

この後の代官所の記録には、内戦の混乱から避難するため、当主・元美(もとよし)の妻・勅子(ときこ)が英之輔を抱いて実家の徳山藩に船で避難したり、厚狭毛利家居館に近い惣社八幡宮にお宮参りする記事などが載っている。

🔘明治になり第9代当主元美(能登)、勅子夫妻には子がなく、元々元美の異母弟・宣次郎(親民)を養嗣子にしていたが、病弱の名目で廃嫡、他家より養子を迎え第10代親忠としてドイツ留学に送り出した。

親忠は帰国後24歳の若さで病死する。

この為11代は幕末動乱の渦中で誕生したこの英之輔が継承することになった。

🔘宣次郎を廃嫡した経過は非常に不自然なところがあり、2020年2月3日のこのブログで「世子廃嫡問題」として私の調べた結果と推理を書いたことがある。

 

【日数(ひかず) 過ぎ   転居あいさつ   虫の声】

 

🔘施設の屋上庭園から北西方向を見る。西北西方向に加古川の製鉄所の高炉らしい影が三基かすかに見える。

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