厚狭毛利家の学館・朝陽館

よく知られているように長州藩では藩校として享保4年(1719)萩城下に「明倫館」を開校した。
ここでは主に藩士を対象に、儒学書・兵書の講義と諸武芸の鍛練が行われた。

藩内では萩の本藩のみでなく、支藩である長府、徳山、清末、岩国(領)でも藩校が独自に設置された。
さらには一門八家といわれる分家や門閥家も同様に学館と呼ばれる学問所を個別に設け文武を奨励した。

毛利家一門第三席の厚狭毛利家も同様で厚狭・郡(こおり・現在殿町)にあった居館や勘場(代官所)の道を隔てた東隣の場所に享和2年(1802)学館が建てられ「朝陽館」と命名された。
この時の当主は第7代就宣(なりのぶ)、初代学頭は市川玄翠(いちかわげんすい)であった。

その後学頭も没し、当主の交代も相次ぎ更に文政期には火災により学館が全焼して約20年にわたり閉鎖されたが、弘化2年(1845)第9代元美(もとよし)によって同地に再建された。
旧より充実したといわれ、中央に本館(講堂)、南に文庫(図書館)、北に寄宿舎、更に道を隔てた南方に撃剣場と馬場が設けられていた。

・山陽町教育委員会発行「山陽史話 一」から転載した居館、学館の絵図と図面(道の右手が学館)
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・昨年帰省した折りに撮った厚狭毛利家居館跡地
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学頭には領内の船木で開塾して儒学蘭学に通じていた市川玄伯(いちかわげんぱく)を迎え、全国的にも知られたその名声を慕い、厚狭毛利家家臣の子弟はもとより、遠く九州、四国、近畿等からの入学を乞うものがあり、生徒数は通学生が40~50名、寄宿生が70名程度併せて百数十名に及んだとされる。

朝陽館では少なくとも幕末の数年間は平民の子弟にも入学が許可されていたようで、その進歩性や規模は陪臣(ばいしん・将軍直属ではなく大名の家来筋)の学館としてはトップレベルであったことが分かる

2020年8月10日のこのブログ「ふるさと厚狭の教育事始め②寺子屋」で当時厚狭には庶民の教育の場として27もの寺子屋があり数百人の子弟が学んでいたことを書いたが、これ等の師匠などを輩出して地域教育ネットワークの中心にあったのが朝陽館と言える。

このネットワークが厚狭・山陽町の発展の基礎になったことは疑いようがない。

◎少し早いようにも思われるがスイセンが咲いている。
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