ふるさと厚狭の教育事始め①/炎天下の辛抱ゴルフ

よく知られているように藩政時代の教育は武士階級を中心にして実行された。
多くの藩で藩校が設立され藩士の子弟が教育を受けたが、長州萩藩でも藩校明倫館がその役目を負った。

これにならい長州藩内では、一門や大身の藩士の中にも学館を設ける動きがあり一門家・厚狭毛利でも八代毛利就宣は享和3年(1803)「朝陽館」を設立し領内から儒者市川玄翠を招聘して基礎を築かせた。
その後活動は衰えたが、幕末を迎え十代元美の時代弘化二年(1845)になって「朝陽館」が再興された。

遺された絵図から見てみると、郡(こおり)村の厚狭毛利家居館の道を隔てた筋向かいに講堂、文庫、寄宿舎があり更には時代を映すように演武館として撃剣場が設けられている。

再興初代の学頭には江戸で佐藤一斎、大田錦城、宇田川玄真に儒学、医学を学んだ市川玄伯が迎えられた。
塾生は領内家臣子弟や、学頭の名を慕い九州、四国等からも来館したと言われ、年齢や学力によって等級を分けていた。

運営は厚狭毛利家の学校奉行・学校目付によって行われたが、版籍奉還が行われた明治二年(1869)をもって閉鎖された。

「朝陽館」のような一門や重臣が作った学館は一般に郷校と呼ばれるが、長州藩内には20校あり、山口県教育委員会の資料に依れば全国で108校中圧倒的に第1番の数である。


◎昨日は炎天下、「物好き」としか思えないゴルファーが集ってホームコースでゴルフに参加。70代3名と50代1名。

前半戦は体にも余裕があったが、午後は途中から本当に我慢と辛抱の会でポカリスエットを大量に飲んで耐えに耐えたものの最終ホールで踏ん張りが全く効かずに大叩き、スコアは前半の貯金が効いて43、45、トータル88で何とか目標は達成したものの力を出し切った気がする。

もう少し体力を何とかしないとと思いつつ、冷たいシャワーを浴びて生き返ったが、いつもの歩きの距離を少し増やしただけでは解決しそうにない、さてどうしたものか?

近くの公園、カンナの花
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