ふるさと厚狭の教育事始め②寺子屋その他

藩政時代に庶民に教育を施したのは寺子屋である。1教室1教師、生徒は普通2~30名程度、その能力や年齢もまちまちで、複々式能力別の教育になっていた。
生徒の内約4分の1が女子といわれる。

史料を見ると厚狭(旧山陽町内)には27を数える寺子屋があり
・師匠は武士が多く、残りは僧侶や神官が担っている。
・開塾は、嘉永安政、慶応等の幕末期が多く、庶民の社会的経済的な成長をうかがわせる。
・年限は一定しておらず短い場合は2~3年長い場合は5~6年とされていた。
・学習は読み、書き、そろばんの3教科が基本で農村地区の場合はそろばんを省略する事もあった。
・時間割登校は午前8時(五つ刻)下校は午後4時(七つ刻)が普通だったが、近傍の志あるものにたいし夜間の講義をする寺子屋もあった。
・謝礼は規定が無いが通常次のようなものだった。
入門:酒一升、年始:金四匁三分、五節句:米一升(または金四匁三分)、歳暮:米一斗五升(金一分を加えることあり)

厚狭のような小さな地域で封建時代に数百人の庶民の子弟が教育を受けていた事実に本当に驚いてしまう。

史料に依れば寺子屋長州藩内(山口県)全域で合わせて1304校あり全国で15550校ある中、都道府県単位で第2番の数である。

前に書いた藩校、郷校、及び今回の寺子屋以外に、吉田松陰松下村塾、僧月性の清狂草堂に代表される、政治的志向が比較的強く個性的な私塾が藩内に106校あった。

藩校で学んだものが郷校や私塾で教え、郷校や私塾で学んだものが寺子屋で教えると言うサイクルも生まれ、これらで長州藩全体の教育システムを構成していた。

この長州藩の教育システムが、幕末期に高杉晋作奇兵隊や諸隊を生む母体になり、更に維新期の人材を輩出するベースになったと私は考えている。

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