厚狭毛利家⑫長州藩軍制改革と厚狭

既にこの日記に書いたように、幕末長州藩では内戦を経て対幕府との全面戦争へと舵を切るが、兵員や武器に圧倒的な差がある幕府軍から仕掛けられる戦争に対抗し得る西洋式軍隊を領内だけで如何に編制できるかが、生死を分ける緊急の課題で慶応元年(1865)6月から慶応2年(1866)8月まで3回の改革令が領内に向け発せられた。

この軍制改革に際し故郷の厚狭毛利家ではどのような対応が出来たのか、たまたま吉川弘文館発行「戊辰戦争の新視点・下」に所載の柳澤京子さんの論文「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」に、この疑問に答える内容があり、これをベースに書き残す。

改革の基本は、知行高1050石未満の家臣は知行高に応じて米納しそれで藩が一律に銃卒を雇い、雇われた銃卒は指揮系統の統一された軍隊に再編制され、家臣は従卒を連れず編制に単独で参加する。また高禄の場合は知行高に応じた人数の銃卒を自ら取り立て一手を編制その単位を藩の統一指揮下におく。

高禄の厚狭毛利家は当時6700石の石高で銃隊半大隊(4個小隊)内2個小隊は士分でライフル銃装備、残り2個小隊は足軽中間農兵で普通銃装備、人員は士官銃卒共149名
更に12ポンド野戦砲2門、人員は士官砲卒共20名
計169名の編制動員が要求された。

また装備は厚狭毛利家自身で調達が基本で、銃の購入が最優先されたが実際に入手できたのはライフル銃40丁、普通銃40数丁で149名の隊員の半数分しか充足出来ず、以前12月25日の日記に小倉口に出陣した厚狭兵員を89名としたがほぼこの数は銃の数に匹敵し厚狭兵が戦闘に参画できる限界の数だった事が分かる。

武器の調達問題と合わせて、兵員の内足軽中間、農兵等のサボタージュが色々な史料にも垣間見え、これは毛利領内全体を通じての課題であり限界とも言え、この後領外への出撃へと続く鳥羽伏見の戦い戊辰戦争を通じて厚狭兵員の統一参加は見られない。

郷土防衛戦争(四境の役)を経て外征へ向かう長州藩の主力は自ら募集に応じた士気の高い奇兵隊など諸隊出身者に移行していく事になる。