厚狭毛利家⑭毛利勅子女史

2月3日のこの日記に厚狭毛利家世子廃嫡問題で10代目元美からの相続が異母弟の宣次郎から他家からの養子親忠へと替わった事を書いたが、ここ迄来ると元美の奥方勅子(ときこ)女史を取り上げざるを得ない。

私はこの世子交替に英明な資質と華麗な人脈を持つ勅子女史の影を感じるのだが直接の史料が残っている訳ではなく、あくまで状況からみた推測である。

勅子女史は徳山藩第8代毛利就寿(なりひさ)の子でその兄弟には、幕末毛利本藩藩主毛利敬親の養子で第14代を継いで最後の長州藩主になった毛利元徳徳山藩9代目毛利元蕃禁門の変の責任を負って自刃した厚狭の隣町宇部領主で長州藩3家老の一人福原越後、出羽山形から上州館林藩主に転じた秋元志朝(ゆきとも)等そうそうたる人物が並ぶ。

勅子女史の功績は明治維新後の女子教育のさきがけになったことにある。種々の史料によると女史は書道、和歌連歌、琴、馬術薙刀術等に長じていたとのことであり、この辺りからも教育者としての資質を窺う事が出来る。

明治6年厚狭毛利家の旧知行地であった厚狭の隣町舟木に、山口全県下にさきがけて「舟木女学校」が認可された。
この設立に尽力し当初の訓導となったのが勅子女史で生徒数は7名で始まった。

女史はこの学校経営に私財の一部を当て、厚狭の毛利邸から居を舟木女学校寄宿舎に移した。女学校は年々盛大になり外部の教員も招聘、従前の校舎では手狭になり明治11年新校舎が企画され、募金も得て翌12年4月竣工した。

然し女史はその竣工を見ることが出来ず直前の12年2月脳溢血で死去、墓は厚狭毛利家の墓所下津洞玄寺にある。また舟木瑞松庵には招魂碑が建立されている。

大名の姫君から名門武家の奥方を経て庶民教育の先頭に立つことは当時の身分感覚の中では余程の自覚を持たないと出来かねる事であろう。

新築なった女学校を県は「徳基学舎」と命名したがこれは「ときこ」の名に因んで詩経から「徳之基也」から採られたと伝わる。
私は女史の生まれた徳山にも繋がっていると思うのだが。

その後山陽本線の駅が舟木ではなく厚狭に設置されたため、明治42年新校舎完成と共に交通至便な厚狭へ「徳基高等女学校」として移転、さらに大正12年県の要請で「厚狭高等女学校」と改称、戦後「厚狭女子高」から統合を経て「厚狭高校」となり現在に至る。
毛利勅子はこれらの学校の校祖として現在も敬崇されている。