厚狭の東隣・船木(現在山口県宇部市大字船木)は江戸時代厚狭毛利家の給領地で、家中では船木を上厚狭(かみあさ)厚狭の周辺を下厚狭(しもあさ)と呼び習わしていた。
何れも旧山陽道の宿場町で船木は本宿(ほんじゅく・大名なども宿泊)厚狭は半宿(はんじゅく・庶民の宿や休憩)であった。また船木には藩の行政区画である船木宰判(さいばん)の役所・勘場(かんば)や藩の接待所・御茶屋もあった。
この船木には応永24年(1417)の開山といわれる曹洞宗の名刹・瑞松庵があり、厚狭毛利家の民政を記録した代官所日記にも萩からの役人を案内したり、当主奥方の参詣など時折名前が出てくる。
山口県在住の同級生から便りがあり、この瑞松庵を訪問してきたとのことで説明資料も頂いた。
何といってもこの寺を象徴するのが山門で、令和3年には有形文化財として国に登録された。
寄棟の上部が切妻になっているいわゆる入母屋造りの茅葺き屋根で門は重層構造になっており、黒澤明監督の時代劇にそのまま出てきそうな風格がある。
この寺の定紋は◯に十文字で山門にも付いているといわれるが、これは第四世住職が薩摩・島津氏の出自ということによるらしい。また開山から四世まで何れも薩摩の人といわれる。
この山門を美しく見せている背後の山について、厚狭毛利家代官所日記慶応元年の記録によれば、四境戦争などの軍資金の一部にするため本藩の許可を得てやむを得ず立木を切り出し近くの有帆川から積み出したことが書かれている。
この折の藩と厚狭毛利家とのやり取りのなかでこの寺が、毛利元就長男・隆元が厳島合戦の後、大内義長を逐って長門国に入りこの寺に宿泊して以来の格別の由来があったこともわかる。
さらにこの寺を地域の名刹にしているのは以下の史跡がこの地にあることにもよる。
・厚狭毛利家第9代毛利能登の奥方で地域の女子教育の先覚者毛利勅子(ときこ)女史の招魂碑、
・厚狭毛利家郷校(きょうこう)・朝陽館(ちょうようかん)の学頭で儒学者で名の高い市川玄白(げんぱく)の墓、
・幕末に地域の浄財を托鉢(たくはつ)などで得て、道路整備や架橋など社会事業に一生を捧げた千林尼(せんりんに)の顕彰碑、
・大内氏の長門守護代を務めた有力国人(こくじん)で寺の近郊に当たる荒滝山の城主・内藤氏一族の墓、
🔘送ってもらった資料
【春立ちぬ 茅葺き門の 寺便り】