功山寺と長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)

山口県在住の中学同級生から、紅葉できれいな下関市長府の功山寺と隣接の下関歴史博物館に行ってきたとのLINEを頂いた。

功山寺は歴代長府藩主の菩提寺で、幕末元治元年(1864)12月15日高杉晋作長州藩の藩論を回天して尊皇倒幕への道筋を付けるために少数の同士と共に挙兵した場所として知られる。
長府藩は長州・毛利藩の支藩に当たり下関周辺を領していた。

☆LINEで送られてきた功山寺山門に映える紅葉、
高杉晋作は挙兵に際しこの石段を騎馬で駆け上がり、当時この寺に寄寓していた都落ちの公卿達に「これより長州男児の肝っ玉を御見せする」と挨拶して出陣した。〉
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その後長州藩内戦「大田絵堂の戦い」を経て高杉晋作など松下村塾系が藩の実権を握り維新にまい進する事になる。

功山寺の山門下にある下関歴史博物館では現在、土地にゆかりの「幕末の長府藩士・三吉慎蔵」についての特別展示がされていることを併せて教えてもらった。

三吉慎蔵は宝蔵院流槍の使い手であったとされ、当時の長州藩薩長盟約や武器の買い付けに助力を期待した坂本龍馬の護衛役に付けた。
幕府の手勢が京・伏見の寺田屋坂本龍馬を捕縛に向かった際は、龍馬と共に戦い隙を見て薩摩藩邸に助けを求めて走りその危急を救ったことで知られる。

慶応元年(1865)4月幕府の第二次長州征伐すなわち長州藩から見た四境戦争では「長府藩・報国隊」の軍監として隊を率いて高杉晋作と共に九州小倉口で戦い勝利した。
この戦線には私のふるさと厚狭の「厚狭毛利家・強義隊」も従軍している。

維新後は宮内省に出仕、その後地元に帰り明治34年(1901)71歳の天寿を全うした。墓は功山寺にあり私も以前訪れたことがある。

作家・司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」怒涛篇には三吉慎蔵の描写が数多く出てくるが以下はその一部。
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勤王派にとって最悪の危険な時期、慶応2年に下関から薩摩藩の船で上方に潜入する坂本龍馬に対し高杉晋作が伝える、
『「坂本さん、貴殿の護衛官たらしめるために藩命により長府藩の士 三吉慎蔵という者を同行させることにしております。槍の名人です」』

この上方へ航行する船内での描写、
『慎蔵は、いかにも長州人らしい秀麗な容貌をもち、髙杉がすいせんしたようにいかにも機敏な感じのする若者だった。
竜馬は船のなかでこの男と暮らしていてすっかり好きになってしまった。
「三吉君は寝返りひとつするにしても、くるっと目もとまらぬ速さでするな」と、げらげらわらった。』

◎この時期の長州にはこの三吉慎蔵のような若者が無数に居て維新回天の原動力となった。