厚狭毛利家代官所日記㊴元治元年(1864)④農兵の実態

8月11日のこのブログで、長州藩内は元治元年12月16日の高杉晋作の下関挙兵から正義派と俗論派との内戦に突入し、厚狭毛利家当主・能登が俗論派として諸隊追討総奉行兼先鋒隊総奉行を拝命、高齢のこともあって養嗣子・宣次郎が引き継いだこと迄を書いた。

この為この頃の代官所日記には当然ながら俗論派寄りの記述が中心である。(現代文に要約)

12月23日
「諸隊(奇兵隊など正義派)へ入隊したもの、入隊したが何月からか家に戻って来たもの、また他出しているものはその場所を含めて申し出るよう沙汰すること」

12月24日
「諸隊へ入隊したもの、途中で家に戻ったものを申し出るように沙汰したところ、下厚狭(郡、下津)梶浦、逢坂にはおらず船木市より以下二名の申し出があった。
・坂田音松 ~奇兵隊入隊帰宅せず
・薬屋藤兵衛三男東一~膺懲(ようちょう)隊入隊帰宅せず」

「宣次郎様は諸隊を鎮静するため明26日朝出陣して絵堂(えどう・地名)迄出向かれるので厚狭毛利領内の農兵は船木岡崎神社と厚狭朝陽館(厚狭毛利学館)へ揃って指揮を待つよう沙汰すること」

12月25日
「中間(ちゅうげん)を10人即刻萩へ送り出すよう指示があったので沙汰した」
「宣次郎様明26日萩を出立して明木(あきらぎ)絵堂辺りへ出陣されるので人数を早々に繰り出すよう又々萩より指示があったので農兵が集まっている場へ相談するように沙汰した」
「下厚狭(郡村、下津村、梶浦)農兵はいずれも気分相(体調不良)で(出陣の)断りを申し出た」

12月27日
「上厚狭(船木、逢坂村)農兵も体調不良で断りを申し出たので厚狭毛利家臣を出して厳重に沙汰したところいずれも岡崎神社に詰めているのでこの中から10人を萩へ送り出すことになった。(その代わり)10日間で交代するようにした」
「農兵10人を召し連れて今日より家臣1名が萩へ出張する」

🔘農兵のトラブルは年明けも続く、
・1月4日 出張した農兵の内、羽織の襟にビロードを掛けた者や白紐付きの小袴を着けた者があり不心得が咎められている。(農兵には武士身分とは異なる制約があったことが分かる)
・1月5日 農兵に病気の者が多いので交替要員が必要。
・1月8日 農兵がいずれも体調不良を申し立て厳重に取り調べた。

🔘厚狭毛利家は長州藩内戦で行き掛かり上、藩正規軍の指揮を受け持つことになり正義派諸隊と対峙することになったが、正規軍先鋒隊は各々の給領地の農兵を動員しなければ諸隊に対抗出来ないような実情にあったことが分かる。

農兵は元々外国船などの脅威から郷土を守るために武器を農民に与え訓練したことに始まるが、それが意に反し内戦に動員されることになり総じて従軍を嫌がりサボタージュ気味である。

そのうえ領内からは諸隊に応募している者も出ている。
志願者が中心の奇兵隊や諸隊にとても勝てるはずがない実態が日記に赤裸々に表れている。

処暑過ぎて 風がひかりが やわらかに】

🔘屋上庭園、よほど蜜が甘いと見えて蟻があちこちの花に出入りしている。