高杉晋作の挙兵で始まった長州藩の俗論派政府と諸隊中心の正義派との衝突は激戦地の名前をとって一般に「大田・絵堂(おおたえどう)」の戦いと言われる。
(大田・絵堂は私のふるさと厚狭の北東、現在の美祢市の一部で、当時の政治の中心・山口と萩の中間点になる)
元治2年1月初旬に行われた戦闘は士気に勝る諸隊側が、藩の正規軍・先鋒隊側を圧倒した。
これを受け、中立派の藩士が鎮静会を結成し斡旋に乗り出す、また第一次長州征伐の幕府軍が兵を引き上げた(1月2日~)後に末家である長府藩、清末藩なども斡旋に動いた。
途中先鋒隊の暴発もあるなか、2月9日萩城で御前会議が行われ「防長一和」「外に恭順、内に武備充実」の藩論が統一確定し、正義派中心の藩政府が組織される。
当然ながら俗論派に属した厚狭毛利家当主親子は失脚して厚狭は不遇をかこつことになる。
この頃の代官所日記は内戦絡みで色々なことが記録されているがその中で興味を引くものを抜粋すると、
1月7日の記録
「昨6日夜半、伊佐(いさ)、河原(かわら)、四郎ヶ原(しろうがはら)へ集まった諸隊、絵堂迄出張の一の手(先鋒隊)陣屋へ押し寄せ、絵堂を占領したと情報があった。」
1月8日の記録
「大田・絵堂辺りの模様を確めるため2名の士分を派遣したところ、大田は諸隊の本陣となっており行けない状況で帰ってきた」
1月9日の記録
「諸隊の者が御内輪(厚狭毛利家)を襲うとの噂があり厚狭周辺の各地へ家臣を派遣、何かあれば即刻報告するように指示した」
1月11日の記録
「代官所の記録、絵図などを入れた二箱を去る8日、長谷次兵衛方へ預けた」
1月13日の記録
「吉田宰判の役所より以下の高札をするようにとの沙汰があったことが庄屋より申し出があった」
《隊のものども我意申しつのり御政道をさまたげるによって追討仰せ付けられる、しかれども先非を悔い改めるによっては一命をお助けなされる、早々に家に帰り以前の如く家業に勤めること。 十二月》
🔘当主の指揮する俗論派軍が敗れる中で厚狭が敵の諸隊から襲われるという噂が飛んだり、そのために書類を避難させたり、12月に藩の指示で立てた不都合な高札のことを庄屋が報告したり、大変な混乱が生じていることが分かる。
厚狭は下関攘夷戦争以来戦いのために随分、人・物・金の犠牲を払って来ているが、まさにこの結果として踏んだり蹴ったりの難局に置かれていることが分かる。
🔘施設の庭にも秋の兆しが。