「暗殺の幕末維新史」③長州藩内戦時の暗殺事件

今回もあまり世間には知られていない長州藩内の暗殺事件を書いてこの項の終わりにしたい。

これまでこのブログでも書いて来たように、幕末の長州藩では松下村塾系の人々を軸とした尊皇攘夷派いわゆる正義派と門閥系が中心で幕府に恭順することを是とする俗論派が主導権を巡って争った。

元治元年(1864)12月15日高杉晋作の挙兵で始まった藩内両派の内戦「大田・絵堂の戦い」では諸隊中心の正義派側が当時政権を握っていた俗論派を圧倒した。

この内戦を早期に終らせるべく中立派の藩士200名あまりが「鎮静会(ちんせいかい)」を組織、俗論派を交代させ挙国一致の政権を目指して斡旋を始める。

鎮静会代表が山口に出向き正義派諸隊と協議し萩に帰る途中、萩往還の明木(あきらぎ)で慶応元年(1865)2月11日俗論派に襲われ3名が殺される。

これを機に鎮静会員が萩城を掌握、俗論派を閉め出し併せて正義派諸隊も萩へ進軍威嚇した。

この大勢を受けて城中で会議が開かれ正義派主体の藩政府が成立、藩論が「武備恭順」で統一され以後揺らぐことなく維新へ邁進することになる。

暗殺実行犯7名は処刑された。俗論派は暗殺を行うことで自らの墓穴を掘ったがこの事が逆に藩内の結束に繋がるきっかけになった。

 

【同期会  十八番(おはこ)を聴けず  「吾亦紅(われもこう)」】

 

🔘このブログを見て貰っている施設の支配人さんから併設の介護棟側の庭を紹介された。その庭を担当している職員さんにもお会いし今後、屋上と一階庭に出入りして花や植物の観察、撮影することの了解を得た。

その第一弾、屋上のニチニチソウ