司馬遼太郎さんの随筆⑥国民国家

江戸時代は身分社会でいわゆる士農工商の差が歴然としていたとされる。一般的に庶民といわれる農工商に属する人々は、年貢を始めとする税を搾り取られ窮屈な世渡りを強いられていると否定的に捉える見方が一般的である。

一方この事を肯定的に見て、それ以前の室町時代までや、以後の明治時代に比べ戦は侍・武士階級がするものだと明確になり、庶民が軍隊や戦と切り離なされ命の心配が無くなった時代と捉える見方もある。

何れにせよ「国民国家」とは云えない実態ではある。

最近あることから明治維新に関する興味が再燃しているなか、現在司馬遼太郎全集第54巻を読み返しているがそのなかで当時の庶民のこの点に関する実態を記録した二つの事実が掲載されている。

明治新政府軍が旧幕府側と戦った戊辰戦争のハイライトのひとつが会津戦争で、新政府軍側の総司令官土佐人・板垣退助の回想、

「あのとき、会津藩の百姓・町人が藩と共に動いていれば、あんなみじかい攻囲戦ですまなかったろう」当時会津の百姓・町人は“侍のなさること"として傍観、なかには新政府軍の道案内をしたものもいたといわれる。

★幕末、幕府は長崎海軍伝習所を開設したが、そこで榎本武揚勝海舟などを指導したオランダ人教官・カッテンディ-ケの回想録、

ある日カッテンディ-ケが長崎の富裕な商人と話していて長崎の防衛力のなさについて語り、"この町は軍艦一隻とその陸戦隊で簡単に占領出来るが、そういう場合、あなたたちはどうするか"とたずねその商人の平然とした答えに驚く。

「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」

これらが当時の日本の一般的な庶民の意識の一端であったことは間違いないが、例外もあり私の出身地長州藩のことを個人的見解を入れて書くと、

★幕末、藩内が幕府寄りの穏健派(俗論派)と奇兵隊など諸隊中心の倒幕派(正義派)に分かれ武力闘争・内戦に至った際、山口地方の豪農層28名による正義派支持「庄屋同盟」が結成され正義派が藩権力を握る原動力のひとつとなった。

長州藩は幕府から第二次長州征伐(四境戦争)を受けることになり、「祖国防衛戦争」という意識の高まりから従来からの奇兵隊や諸隊と併せ、豪農層、村役人層の指導する農兵隊が相次ぎ組織されると共に、一般農民もそれに応じて献金したり農兵に志願した。

これらの事から、見方を変えて云えば時代の要求である「国民国家」に向けて先行した勢力が遅れていた旧勢力を倒して新たに打ち立てたのが明治維新であり明治の国家ではないかとも思える。

🔘今日の一句

 

珈琲の温もり香る冬隣  

 

🔘近所の施設、今年初めて出逢うコスモス。