厚狭毛利家の開作(かいさく)①開作あれこれ

先日私の故郷・山口県厚狭在住の中学同級生から、稲を昔ながらの天日干し(はさかけ)する田んぼの写真がグループLINEに送られてきた。

場所を確認すると江戸時代に干拓で出来た土地(古開作)であり、そういう土地で稲作が連綿と続けられていることに感慨を覚え、その歴史の一端を「山陽町史」「角川地名大事典」「厚狭郡史」などを参考に書かせて貰うことにした。

長州萩藩・毛利家は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前は西中国120万石の太守であったが、負け戦で周防国長門国二ヶ国(現在の山口県)36.9万石に押し込められた。

この為当主・輝元は家臣一同の大リストラを行ったが、同時に藩の財政が年貢米に依存していることから、新田開発が藩成立以来の藩是・奨励策になった。

萩藩ではこの新田開発のことを開作(かいさく)と呼びならわした。

長州萩藩の財政を支え明治維新へと飛躍する礎になったものとして防長(周防・長門)の四白と呼ばれる米、紙、塩、蝋(ろう)が挙げられるが、その筆頭にある米はまさしく藩を挙げての努力の賜物であった。

開作にはその形態から藩府が直接経営した公儀開作、藩士に開作権を与えた家来開作、寺社が行った寺社敷開作、農民が行った百姓自力開作があり、例えば「厚狭毛利家代官所日記」には意欲ある百姓が領内で開作し石盛(こくもり・年貢高を決める)を行なったことも記録にある。

しかし開作にはそれなりの労力費用を伴うためその多くが家来開作だったと言われる。

萩藩成立の折、一門家臣である厚狭毛利家は初代・元康が厚狭郡周辺で10500石を拝領したが、その死後二代・元宣の代に馬揃え(うまぞろえ・軍備点検)の際の不首尾(家禄に相応しくない馬)を咎められ6000石に減石された。

(この厳しい措置は若年の元宣に対する政治的なものだったと推定している)

毛利元就八男の毛利元康はもともと関ヶ原以前の禄高が23800余石であることが毛利氏「八箇国時代分限帳(はちかこくじだいぶげんちょう・関ヶ原前の家臣の禄高一覧表)」に遺されており、都合2度の減石により当初からの所領が約4分の1になっており、開作などに取り組むことが家臣共々生き残る為に不可避であった。

厚狭毛利家の開作は三代・元勝の頃から記録に表れ始め、所領地内や三田尻干拓などに注力した結果宝暦13年(1763)の検地では総高8371石余と記されており当初の6000石からの差はほとんど各地の開作によるものと考えられる。

この後幕末になって本格的に行われた厚狭川河口の梶浦開作(古開作、沖開作)については次回明日に。

🔘今日の一句

 

海拓く苦難伝えて稲穂波

 

🔘近くの施設、特有のトゲがあるのでバラの一種に違いないが画像検索でも都度名前が異なり絞りきれない。