司馬遼太郎さんの随筆①毛利の秘密儀式

司馬遼太郎さんが書かれた随筆を読み返していくと懐かしく面白いものに色々と突き当たるがこれもそのひとつである。

「毛利の秘密儀式」と題したそれは昭和39年の読売新聞に掲載されたもので、毛利家が関ヶ原の戦いで戦わずして負け中国地方の太守から周防長門二ヶ国に押し込められた際のものである。

司馬さんも話の前段で「伝説では」と断っているようにこの話は私も色々なところで聞いたことがあるが正確な裏付け史料はまだ見たことがない。

秘密儀式は元旦の夜明け前に萩城中で一の家老が毛利家当主の前に進み出て「もはや徳川討伐の準備ができましたがいかがはからいましょうや」と言上すると当主は「いやまだ時機が熟せぬ」という問答になって毎年繰り返されたというものである。

この背景には家康の約束違反で120万石の身代が36万石となり家臣の整理、俸禄の3分の1から5分の1への縮小などによる藩自体や家臣団の窮迫があり、当時の記録には畑を作り内職をしても追い付かなかったとある。

私の追跡する厚狭毛利家では家祖・元康(毛利元就八男)が毛利輝元の相談役として重く用いられていて、関ヶ原前5万石程度の所領を得ていたと推定されるが、関ヶ原戦後は厚狭周辺で10500石、元康がその直後に死んで跡継ぎ元宣(もとのぶ)の時代には馬揃いの不備をとがめられたこともあり6000石に落ち込んでしまう。

厚狭毛利家の分限帳(ぶげんちょう・家臣の俸禄や階級の記録)をみると筆頭家老でも130石程度の俸禄であり10石から20石程度の家臣がもっとも多い。(5万石の筆頭家臣では最低でも千石取りが普通でありこの場合少なくとも俸禄は10分の1程度に減っている)

もうひとつの伝説としてこれらの家臣団の窮迫はすべて徳川家によるものであるとされ〈毛利家の家臣はみな足を東にむけて寝た〉というものがある。

私は以前から、なぜ長州藩明治維新の当事者の一員になり得たのかについて興味があり4~5項目の要因を今まで考えてきたが、この伝説の背景にあるものがその内のひとつであったことは間違いないと思っている。

司馬さんは随筆の最後に、

関ヶ原明治維新までつづいたわけである」

と結んでいる。

 

父と娘(こ)がミスド頬張る朝涼し

 

🔘施設の園芸サークルの畑と庭にあるヒナギク

蜘蛛か虫か?