「戦国大名の兵粮(ひょうろう)事情」

吉川弘文館・歴史文化ライブラリー#415「戦国大名の兵粮事情」久保健一郎著 を読み終えた。
著者は早稲田大学教授で戦国時代を中心に研究されておられるようである。
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戦国大名と言えば大きな領国を持ち英雄達が智略を尽くして戦い、生き残りや一族の繁栄をかけてしのぎを削るという構図が定着しているが、これらは戦国時代のごく一部のイメージに過ぎず戦争・戦(いくさ)のみに絞っても問題は随分と複雑になっている。

現代でも同じだが戦争は戦闘のみで決せられるものでなくむしろ表面に出ないところが鍵を握っていると著者はいう。
本書に著された兵粮もその一つで、「腹がへっては戦ができぬ」といわれる通り最重要な課題かもしれない。

戦時の食糧であり、戦国大名はこれをどう扱い戦に臨んだのか、調達、備蓄、運搬、食糧以外の用途等々さまざまな面から分析して戦国大名とそれを取り巻く社会を語っている。

事例として小田原・北条氏を挙げている例が多いが時折西の代表毛利氏も顔を出し、毛利の瀬戸内水軍の実力が
大阪本願寺への兵粮搬入等長距離大量輸送に活躍すると同時に、敵対勢力の兵粮搬送搬入を妨害することに役立っていた記述は興味深い。

処で兵粮とは少し離れるが、この本の戦国社会の経済状況を説明した章で、戦国大名が家臣に対し特に規定を厳重にしていたとされる、馬や武器、軍装等についての記述は興味深い。

このブログで度々登場させている、ふるさと厚狭を江戸時代治めた厚狭毛利家では、毛利本家が関ヶ原敗戦で防長2ヶ国36万石となった時点で、初代毛利元康に10500石が与えられた。その後直ぐに元康が死去、2代元宣が跡を継いでしばらく、まだ戦国の気風が残る時期の元和3年(1617)に萩城で毛利家臣の馬具や軍馬検査を目的に馬揃えが行われ、厚狭毛利家は身代に見合わない馬の不備を咎められ祿高を6000石に半減されている。

これだけ見ると毛利一門の幼少の跡継ぎに対して、先代の功績も無視した何と過酷な処分かとも思われるが、上記のように(戦国)大名が日頃から家臣に対し馬や武器、軍装など戦準備に厳重な要求をしていたことを考えると、この処分の裏に有るものが更に見えて来る気がした。

◎これもアジサイだろうか。
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