「源義経の合戦と戦略・その伝説と実像」

菱沼一憲著「源義経の合戦と戦略・その伝説と実像」角川選書を読み終えた。

この本は今から約840年前に活躍した日本史上のヒーロー・源義経について史料や物語を丹念に追究し軍事面と政治面双方から伝説を廃して実像により近付こうとする試みでありその成果は、

軍事面で見ると従来合戦の勝敗を左右するものとして鵯越(ひよどりごえ)の逆落しなど劇的要素ばかりが重視されてきたが、改めて全体像を再現すると各場面での合理的に対応する義経の姿が浮かび上がる。

すなわち義経に勝利をもたらしたのは神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行であったとしている。

政治面で言えばこれまでの義経は政治センスの欠如による失脚というイメージであったが、著者はこれを否定している。

平家追討後親京都政策の先鋭であり武家棟梁権の代行者でもあった義経が、鎌倉幕府の主たる構成員である東国御家人の親京都的政策への反発と、京都朝廷側の武家棟梁の権威権力による支配への反発、の間の難しいかじ取りのなかでバランスを失い失脚したと結論付けている。

それはさておき、私はたまたま源平一の谷合戦場のすぐ近くに越してきて、一の谷の背後にそびえる鉢伏山や鉄拐山に登り一の谷側に降りたことがあるが、このような急斜面は通説のように義経が馬で駆け降りたとされることは不可能と確信した。

著者は一の谷合戦の種々の検討を踏まえ、義経丹波を越えて三草山から旧道を通って一の谷の西側の山陽道に出て、海沿いの山陽道を東へ向かい一の谷の攻撃の指揮を取ったと判断している。

当時は現在よりも海が陸に迫っており、現在住む場所のほぼ目の前を西から東へ駆け抜けたことになる。

鵯越の山の手から平家の本営・福原を攻めたのは摂津源氏多田行綱の部隊であったと結論付けており、合戦場の近くに住むことになった私にとっても納得出来るものになっている。

 

義経が駆けたる路ぞ夏野原】

 

🔘施設の庭のヤナギハナガサ、細い茎が風に揺れ屋外で写真を撮るのがとても難しい。