「逆転大名 関ヶ原からの復活」

河合敦著「逆転大名 関ヶ原からの復活」祥伝社刊を読み終えた。著者は最近NHKの番組「歴史探偵」でも解説役で出演されている歴史研究家である。

徳川幕府への道を開いた天下分け目の「関ヶ原の戦い」は戦後、各地の大名家が所領没収、削減、加増、安堵など悲喜交々の大嵐に巻き込まれた。

この本はこれらの大名家の内、西軍に属した為一度所領を没収されたものの後に大名として復活した8人の武将についてどのような人物であったのか、復活の理由は何なのか、云わば敗者復活戦を取りまとめたものである。

8人全てを書くわけにいかないのでここではその内の一人・立花宗茂(たちばなむねしげ)に触れることにした。立花宗茂は私が従来追跡して来た毛利家の人物と以下のような縁がある。

・厚狭毛利家の祖・毛利元康は秀吉の朝鮮出兵時の最大の激戦のひとつ「碧蹄館(へきていかん)の戦い」で立花宗茂と共に戦い、後に秀吉から感状を共に受けている。また関ヶ原の前哨戦の大津城攻めでは毛利元康が総指揮をとり立花宗茂もこれに参加した。

長府藩の祖・毛利秀元は三代将軍・徳川家光のお伽衆として江戸で近侍したがこの時の同役の一人が立花宗茂であった。

立花宗茂は元々九州大友家の家臣であったが、その武勇を見込まれ秀吉の直臣(じきしん)となり、 柳川13万石の大名として取り立てられる。この縁で関ヶ原では西軍に属するが大津城攻めに参加したため本戦に間に合わず、戦後所領没収された。

その後宗茂は上方に滞留して徳川家に御家再興を嘆願することと併せて武芸、文芸、遊芸の修行に励む。

かつて不敗の名将といわれたその経歴と多彩な才能を時の二代将軍・秀忠に見込まれ、所領没収から足かけ6年目にして奥州に1万石の大名として復活、その後大阪の陣での軍略での進言などで秀忠の絶大な信頼を得て、柳川城主であった田中家の改易に伴い遂に柳川11万石領主として旧領復帰を果たす。

その後老齢ながら天草の乱にも従軍奮戦、三代将軍・家光の絶大な信頼を得て立花家を磐石にした。筑後柳川立花家は明治維新まで続くことになる。

 

辛夷(こぶし)咲く今年叶わず土起こし】

 

🔘菊とハナハマサジ(花浜匙)