厚狭毛利家⑱初代元康の足跡①

関ヶ原合戦の毛利家を追跡する過程で色々な資料を参考にさせて貰ったがその中のひとつが令和元年10月から下関市立歴史博物館で開催された特別展「関ヶ原ー天下分け目と毛利氏の戦い」の展示図録で学芸員松田和也氏が編集執筆されたものである。

この資料を詳しく読み返す中で、厚狭毛利家の家祖・毛利元康の足跡と思えるものが2種類掲載されていることに気がついた。

①碧蹄館勇戦之図(へきていかんゆうせんのず)ー近代日本歴史画家・邨田丹陵(むらたたんりょう)が描いたもの。

豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄の役(1592~1593)では主に西日本の大名が動員され毛利家も大軍を派兵、毛利元康も一手の将として渡海した。当初日本軍は破竹の勢いで北上、平壌を落とした。

その後朝鮮王朝の要請で、李如松が率いる明の大軍が南下し平壌を奪還した勢いで、漢城(現ソウル)に迫った。日本軍は漢城の北・碧蹄館で迎え撃ち、これに大勝した戦いで、2019、5、15のこの日記「毛利元康大阪の墓を訪ねて」に書いたことがある。

全体図
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日本軍諸将、実際の日本側陣形は中央に小早川隆景他、左翼に立花宗茂他、元康は右翼隊であったと伝わるが、絵では小早川隆景を中心に混在している。
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毛利元康の拡大図、当時元康は33歳と考えられ若さが感じられる図になっている。
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この戦いで豊臣秀吉から乗馬と感状を与えられたのは、小早川隆景立花宗茂、毛利元康の3名であり、身びいきながら元康はもう少し中央で描かれてもよかったのではと思う。

◎夏とは完全に様変わりした近所のくぬぎ林。
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落ち葉が凄い、これらは自身の肥料になるのだろう。
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