長州の三白(さんぱく)とふるさと厚狭

一般的に長州と呼ばれる萩・毛利藩はよく知られているように関ヶ原の敗戦で中国地方120万石から周防・長門36万石に減封されて以来慢性的な財政赤字で長期に亘り苦しんでいた。

その財政改革の成果を挙げた指導者が、毛利家第9代斉房(なりふさ)から第13代敬親(たかちか)まで仕えた村田清風(むらたせいふう)で、教育改革、北前船や長崎航路の基地としての下関の商業振興・越荷方(こしにかた・金融倉庫業)の設置などと併せ産業政策として三白(紙、米、塩)の振興を勧めた。

これらが功を奏し関ヶ原後の立藩時36万石であった経済力が幕末時には実質100万石と称せるようになり維新に雄飛する原動力になった。

ふるさと厚狭のこの三白政策に関わる内容を見ていくと、
①紙(山陽町史による)
天保末年(1843)頃、厚狭村には和紙の紙すき15軒がありその生産量は300締であった。(1締=半紙2000枚、計600000枚相当)

・和紙の原料となる楮(こうぞ)は10月に切り取られ切り取り長さ3尺(約91cm)を6貫目(22.5kg)毎に束ね1把とするが、厚狭村500把、末益村100把、埴生村190把、津布田村60把等の生産量であった。

これらの内、和紙の特産地鹿野(現在周南市鹿野)へは藩の指示で強制割り当て量が送られることが決まっており。これを「鹿野渡し」と呼んだ。ちなみにその割り当ては厚狭村の場合で16把である。

②米
・藩政時代はあくまで米経済が基本でありこの収穫高が藩の基礎体力であった。
以前このブログでも触れた事があるが、厚狭毛利家では初代毛利元康に10500石の給領地が与えられたが、元康死後幼くして跡を継いだ2代目元宣(もとのぶ)の時代、萩での馬揃いの際の不備を藩より咎められ6000石に減石された。

萩藩では新田開発のことを開作と呼んだが、減石で苦しむ厚狭毛利家では厚狭川河口付近や野山を含め何代にも亘ってこれに取り組み、宝暦13年(1763)の検地では総知行高は8371石6斗となっており、増加の殆どが開作によるもので大きく米の増産に寄与している。

③塩
厚狭周辺ではさすがに塩生産の記録は無いが、このブログ
2020年8月26日の「ふるさと厚狭の石炭①」及び同8月30日「ふるさと厚狭の石炭②」で書いてきたように塩田用の燃料として厚狭周辺で採掘される石炭に需要があり、主要な塩田を持つ三田尻(防府市)や岩国に向けて、厚東川、有帆川、厚狭川から積み出された。

厚狭地域もこの長州・萩藩の三白政策に深く関わっていたことが見えてくる。

◎これは図鑑を見るとカノコユリの仲間のような気がする。
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