神功皇后(じんぐうこうごう)と卑弥呼(ひみこ)

私のふるさと山口県朝鮮半島に近い関係からか神功皇后伝説が多い地域で、民謡不毛といわれる県ながら唯一広く知られている幕末お台場(砲台)建設で唄われたという民謡「男なら」の1番と2番の詞の最後にも神功皇后が出てくる。

1番、♪︎♪︎神功皇后さんの雄々しき姿が鑑(かがみ)じゃないかいな オーシャーリ シャーリ♪︎♪︎

2番、♪︎♪︎神功皇后さんの鉢巻き姿が鑑じゃないかいなオーシャーリ シャーリ♪︎♪︎

また生地・厚狭の名前の由来伝説のひとつとして、江戸時代萩藩毛利家が領内各地の情報を上申させた「防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)」の「鴨庄の内厚狭村」の章に以下のような記述がある。(現代文に直す)

『当村は昔、朝日市(いち)といっていた。それは(隣村)船木市の外れに古今未曾有の楠の大木が有り~~朝日市は大木に遮られて太陽が樹上に昇って始めて拝すことになるので朝日市と呼ばれたが、いつの間にか今の厚狭市に転じた。~~神功皇后三韓征伐の時この木を伐って軍船48艘の材木に用いられた~~』

神功皇后は考古学的に存在が証明された訳ではないが、「古事記」「日本書紀」に記事があり第14代仲哀天皇の皇后で、夫の死後摂政として国を率い朝鮮半島にも自ら陣頭に立ち出兵、三韓征伐と称される。その死後、子の第15代応神天皇に権力が引き継がれたとされる。

日本書紀などの記述をもとに歴史的に矛盾が出ないように歴代天皇を西暦に比定していくと、神功皇后は西暦201年~269年の長期間摂政を担ったことになるらしい。

以上のことは概ね知っていたが、最近厚狭の前方後円墳の事を理解するため今まで踏み入れていなかった古代史に少しだけ踏み込むと、当然の如く邪馬台国卑弥呼に遭遇した。

中国の歴史書魏志倭人伝などに記録された卑弥呼は実在の女性と考えられるが、その生涯はほぼ西暦188~248年と想定されており、この時代が神功皇后に比定されている時期と近似していることに正直驚いた。

この驚きをもとに色々当たって行くと諸説有り、中にはやはり日本書紀などが、卑弥呼を想定して神功皇后を書いたのではないかと考える説もあることがわかってきた。

日本書紀は漢文で書かれ、元々日本を中国(唐)にアッピールするための歴史書であるという考えに立つと、当然創作が行われたであろうと想像される。

何れにせよ2000年近く前のことで考古学的事実と伝説や創作が入り交じり真実にたどり着くのは容易ではない気がするが、面白く興味の対象が拡がったことは間違いない。

🔘今日の一句

 

蜜蜂が背中(せな)へ乗れよと誘いけり

 

🔘施設の庭と介護棟の庭のツツジの仲間