山陽町史⑨山陽道と西国街道の西へのルート/二胡コンサート

古代から中世にかけて京都から九州(大宰府)を結ぶ旧山陽道は大路、中路、小路と分けられた官制の駅路の内で唯一の大路で最も重要視されていた。

厚狭は官制の駅家(うまや)のひとつで、宿泊施設や伝馬などが常備されていて、ここから西へ埴生(はぶ・山陽小野田市埴生)、宅賀(たか・下関市小月)、臨門(りんもん・下関市前田)を経て九州へ渡る。

(一方厚狭は、山陽道山陰道を結ぶ陰陽連絡小路の起点駅家であり、この事は2023年5月30日のこのブログに書いた)

近世江戸時代にこの道は主に西国街道と呼ばれるようになっていたが、その宿場は、厚狭から西へ吉田(下関市吉田)、小月(おずき・下関市)、長府(ちょうふ・下関市)、赤間関(あかまがせき・下関市)と西へ繋がる。

地図を見るとわかるが、中世までは厚狭から西へは海岸沿いを通っていたが、近世になると山側の山野井地区を経由した山越え道を通って吉田に出て下関(赤間関)へ抜けるようになっている。

この変化が自分の肌感覚としてもなぜなのか理解できなかったが、「山陽町史」を読み込むなかでようやくわかってきた。

町史には厚狭を通過した色々な人物の古い記録などが紀行文として紹介され、各々の時代の道筋を裏付けしているが、これらの中から得られた肝心な部分を要約すると、

豊臣秀吉朝鮮出兵に際し、九州名護屋を往復の途次、天正年間(1587及び1592)に埴生、厚狭へ立ち寄った記録があり、それ以前の時代の道中記は全て埴生と厚狭が繋がっていて海側のルートであったことがわかる。

慶長10年(1605)の古地図を見ると既に山陽道(西国街道)の道筋は厚狭山野井から吉田の山越えルートになっていて埴生が抜けている。

近世になって干拓が行われるまで埴生から長府までは干潟で、干潮時を選んで渡るか海辺の崖道を迂回するしかないことが記録されている。

以上の事や諸記録を併せ「山陽町史」は以下のように合理的に推定して説得力があり私も納得している。

【秀吉の朝鮮出兵文禄の役(1592~93)慶長の役(1597~98)の二度行われたが、全国から人員物資の大量動員が行われており、この大量輸送を考えると埴生へ行くより約8kmの距離短縮と安定的な輸送が可能になる吉田経由が好ましく、この時期に(戦時対応も兼ねて)ルート変更が成されたと考えられる。】

🔘4月27日(土)施設でアフタヌーンコンサート・二胡演奏会あった。奏者4人のユニット・桃李花(トーリーファ)が出演され、蘇州夜曲、川の流れのように知床旅情、ふるさと、など12曲が演奏された。

曲もよかったが、二胡の説明のなかで騎馬民族二胡を背にして馬を走らせる工夫をしているというくだりが心に止まり、その情景がありありと浮かんできた。

🔘今日の一句

 

西域(さいいき)へ二胡が誘(いざな)い春終る

 

🔘施設介護棟の庭、ニューギニアインパチェンス