明治のふるさと厚狭①厚狭駅の開業と日本海海戦

昭和懐メロの定番のひとつに「ああ上野駅」という井沢八郎さんが唄った歌があり「♪上野はおいらのこころの駅だ♪」と唄われるが、私にとってのこころの駅は山陽本線厚狭駅になるだろう、帰省の度にここに降り立つ。
現在の厚狭駅
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明治時代になると新橋~横浜の開業から始まり国策としての鉄道敷設が、官営民営が併存する形で広く進められた。

民営の山陽鉄道による神戸~赤間関(下関)間についても神戸から順に敷設工事が進み、明治33年(1900)12月3日に三田尻(現在防府駅)~厚狭間が開通し同時に厚狭駅が当時の終着駅として開業した。

この時同時に開業したのは厚狭から東へ小野田駅、船木駅(
後に厚東駅と改称)など。

その後明治34年(1901)厚狭から馬関(下関)駅間が敷設開業し厚狭の次は埴生駅で厚狭は途中駅となった。

明治38年(1905)厚狭から山陽鉄道の支線となる美祢の大嶺駅まで大嶺線(現在の美祢線)が開業した。

また明治43年(1910)には船木駅(厚東駅)と小野田駅間に宇部駅(後に西宇部更に宇部に)が開業した。

厚狭駅は江戸時代から厚狭市(あさいち)と呼ばれていた厚狭本町周辺を避けて、それより大きく西へ移動した千町ヶ原(ちまちがはら)の沖田(おきだ)と呼ばれた水田地帯に設けられた。
この為町の賑わいが旧市街の本町筋から新しく西に出来た千町筋に移ることになる。

明治初期、厚狭郡役所は厚狭の東隣の宿場町船木市(ふなきいち)に置かれており、駅はこの船木市を通る筈だったという説があるが、厚狭駅と同時に開業した小野田駅の位置を考えると、鉄道は明らかに今後の産業振興を考え海岸に近い宇部小野田を目指して迂回しておりこの場合、次の駅は船木市でなく厚狭市が必然だったと私は考えている。

この結果、船木にあった毛利勅子女史(3月12日のこの日記参照)創立の高等女学校が船木から厚狭に移転するなど、郡の中心が船木から厚狭に徐々に移転することになり両地域の対立の火種となった。

2019年6月4日のこの日記に「無煙炭と坂の上の雲」として、明治37年(1904)の日露戦争直前に海軍が、美祢地区大嶺に無煙炭採掘のため臨時採炭部を設置したことを書いたが、上記の明治38年大嶺支線の開業は、この日本海軍の強い要求で成されたものである。

戦闘艦用無煙炭は、火力=推進力に優れレーダーの無い時代の非視認性(現代風に言えばステルス性?)に優れていることから、艦隊運動や戦闘能力に大きく影響を与えるものであった。
この開業で大嶺炭鉱で採掘された無煙炭は、厚狭駅を経由して海軍省徳山燃料厰への輸送が可能になった。

尚、大嶺支線の敷設工事は軍の要求に応える突貫工事であったが厚狭川に沿う難工事で明治38年6月完了の予定が8月末完工と2ヶ月遅れになったと伝わる。

連合艦隊がロシアバルチック艦隊を壊滅させ日露戦争の帰趨を決した日本海海戦は明治38年5月の事であり時系列で見ると残念ながら、大嶺の無煙炭は海戦に間に合っておらず、連合艦隊は英国からの輸入無煙炭で戦ったことになる。

◎近くの小学校、ネットフェンスの下から覗く花①
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