「世に棲(す)む日日」と厚狭毛利家

11月7日のこのブログで幕末の女流勤皇歌人・野村望東尼(のむらぼうとうに)と高杉晋作のかかわり合いを書いた際に、作家・司馬遼太郎さんが幕末の長州藩吉田松陰をはじめとする松下村塾系の群像を描いた「世に棲む日日 」第三巻を引用させてもらった。

第三巻はそのほとんどが高杉晋作の行動で埋めつくされているが、書棚から出したのを機に読み直して見ると、ふるさと厚狭を給領地とした厚狭毛利家に関係する箇所が有ることが若い時に読んだ記憶と共によみがえってきた。

①現在は宇部市の一部になっている船木市(ふなきいち)は以前は厚狭郡の一部であり藩政期には厚狭毛利領で上(かみ)厚狭と呼ばれていた。

長州藩が下関海峡を通過する外国船を「攘夷実行」の名目で砲撃したことの報復で、元治元年(1864)8月、4ヶ国連合艦隊が下関砲台を占領、その後の和平交渉で長州藩はその交渉役を高杉晋作に任せる。その部分の抜粋から

『おととい、第一回談判がおわったあと、晋作と伊藤俊輔(博文)はこの結果を船木に駐在する世子(せいし・世嗣ぎ毛利元徳)に知らせるべく急行した。船木というのは、いまの地名でいえば小野田市宇部市の北方にある。平闊(へいかつ)の地で、道路が四方から入り込んでいるため、長州藩時代には内陸交通の要衝であり、ここに郡代役所もおかれていた。世子は山口から出てきてこの船木でこの非常事態における指揮をとっていた。ーーーーー』

長州藩が内圧外圧を受けて俗論派(保守派)が実権を握った状況下、高杉晋作が決起したことで保守派と高杉などが率いる奇兵隊等の諸隊を主力とする正義派との武力衝突・「大田絵堂の戦い」が慶応元年(1865)初頭に発生する。

この時保守派の総指揮官・総奉行に任命されたのが厚狭毛利家第九代・毛利元美(もとよし)の異母弟で養子となっていた宣次郎(せんじろう)である。その部分の抜粋から

『ーーーーー明木(あきらぎ)村は赤村からみればさらに萩城下に近い。この村に藩政府軍の中軍が駐屯しており、大将は毛利宣次郎であった。「どうか中軍と合流させてくだされ」と敗走してきた粟屋帯刀(あわやたてわき・先鋒指揮官)は上級指揮官である毛利宣次郎の本営に駈け込むと、土間に折りくずれるように座り、そう頼んだ。精も根も尽きはてたという姿であった。すでに粟屋以上に敗北感をもっていた毛利宣次郎はこれを叱らなかった。ーーーーー』

◎ふるさと厚狭もこの頃否応なく維新前後の激動のなかに巻き込まれていく。
厚狭毛利家はこの経過などから保守派の烙印がついてまわり、明治維新に出遅れることになる。

◎歩きの途中で見かけた柿の木、形からすると富有(ふゆう)柿のようで、もうそろそろ食べ頃のような気がするのだが。
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