厚狭毛利家代官所日記㉛文久3年(1863)番外編・光明寺党

厚狭毛利家第9代毛利能登(元美・もとよし)が長州藩の攘夷(じょうい)・異国船打ち払い責任者・赤間関(下関)海防総奉行として藩士を率いて着任した文久3年4月と同時期、松下村塾門下で高杉晋作と双璧といわれた久坂玄瑞(くさかげんずい)がいわゆる尊皇攘夷を旗印にした同志一団と京都から帰藩してきた。

(余談ながら、西郷隆盛は明治に入り長州の客を迎えると「お国の久坂さんが生きておられれば私のようなものがこのような大きな顔をしてはおられません」と言ったと伝わる。久坂玄瑞は翌年元治元年(1864)7月長州藩兵が御所に突入したいわゆる「禁門の変」で討死する)

彼らは攘夷実行期日5月10日を聞いて下関行きを志願したもので、この中には長州人以外もおり藩政府はその統制に危うさを感じつつも偵察名目で許可した。

彼らは本営を下関・光明寺に置き「光明寺党」と呼ばれた。一団の多くは軽輩の士で攘夷実行を熱望し、来藩中の過激派公家・中山忠光を戴き毛利能登の指揮する正規部隊と張り合う形になった。

実行期日5月10日、米国商船・ペムブローク号が来航、潮待ちで投錨した。
下関を管轄する長府藩の使いが船に至り水先案内の日本人に事情を確認した処、神奈川奉行から長崎奉行宛の書状を持参していることを告げられた。

この報告を受け毛利能登は攻撃不可と判断、使いを光明寺に送り軽挙を戒めた。

しかし光明寺党はこれに従わず、折から来会した藩船2艦の指揮官と談合、これらに乗船し夜闇に紛れて接近し砲撃を開始した。
米船は豊後水道に逃げ去った。2艦は追走するも速力が及ばなかった。

結局この毛利能登の慎重な対応が光明寺党をはじめとする長州将兵の反感を買い、藩政府からも直ちに攘夷を実行しなかったとして2ヶ月間の謹慎処分を受けた。
ただその行動には情状酌量の余地もあるとして海防総奉行の後任には厚狭毛利家嗣子・宣次郎が就いてその後の指揮をとることになった。

このときの能登の対応がこの後の厚狭毛利家の立場を決定付ける一つになっていく。
(5月10日下関での攘夷実行期日の代官所日記の記述については次回に書くことにする)

🔘【雨あがる 見知らぬイガが あちこちに 空見上げれば フウの樹立ちて】
ーーー今朝雨上がりを何時ものように歩くと見たことの無い茶色いイガイガが散乱している。公園の管理する人に訊ねると「フウ」の樹と教えられた。
イガイガが散乱

フウの樹

葉は楓に似ている