厚狭毛利家代官所日記㉞文久3年(1863)⑤農兵

文久3年5月10日長州藩では下関で外国船を砲撃、厚狭毛利家当主や嗣子がその陣頭に立った。
その前後から代官所日記には「農兵」に関する記述が増えてくる。その一部を抜粋して現代文に直す。

4月14日
農兵、一存内(ひとつの庄屋管轄内)に10人当て稽古するよう吉田(宰判・長州藩の行政区画役所)より沙汰があったと届けられたことについて評議し、沙汰の通り差し出すよう下厚狭(郡村、下津村、梶浦)の庄屋へ指示した。

5月6日
西洋稽古(洋式調練)について農兵の名前を申し出るよう過日吉田より沙汰があった件について下津村より9人、郡村より3人(梶浦は0人?)の届け出が庄屋よりあった。

7月20日
農兵への稽古指示を厳重に沙汰した。

8月2日
吉部田(きべた)八幡宮での農兵稽古を見分(けんぶん)した。人数20人ばかり、剣術を終えて西洋銃陣(太鼓を合図に一斉に進退するのが特徴)を立てた。

8月5日
岡崎社(船木・岡崎八幡宮)で農兵稽古を見分、人数24人剣術を終わって西洋銃陣を立てた。

8月20日
岡崎社に於いて若殿様(長州藩世子・毛利定広)が農兵稽古を上覧されるとのことで、旦那様(厚狭毛利家当主・毛利能登)若旦那様(養嗣子・宣次郎)も出掛けられた。稽古が終わって直ぐに山口へお帰りになりお見送りした。

8月23日
農兵稽古に出るもので名字が無いものが勝手に名字を名乗らないよう地方(じかた・村々)へ沙汰した。

8月27日
(厚狭毛利家当主より)農兵稽古の見分を仰せ付けられたので明日28日朝陽館(ちょうようかん・厚狭毛利家学館)へまかり出るよう領内に沙汰した。

8月28日
農兵48人がまかり出たところ若旦那様が通りかかり上覧を仰せ出された。
剣術稽古に引き続き兵練場(学館に併設)にて西洋銃陣をご覧になった。
終わってから農兵へお酒を下された。
(厚狭殿町にあった毛利家居館と学館の図面、学館の右手前が兵練場)

🔘厚狭毛利家のある吉田宰判の諸士はもともと下関警衛の任務が課せられており領内が手薄になることを避けるため安政6年(1859)の段階から農民を武装させる農兵の小銃稽古が実行されていた。

🔘厚狭毛利家領内で最終的に48人の農兵が取立て出来たようだが5月6日の記録にあるように働き手を取られる村では抵抗が見られる。
軍備の充実と民衆の生活はいつの世でも矛盾する。

🔘農兵は勤務中に限り帯刀を許されていたが、8月23日の記録にある通り名字を称することへの要求はあったようだがこの時点では許されていない。
封建的身分制へのせめぎあいが始まろうとしている。

🔘高杉晋作奇兵隊結成は同年・文久3年6月、藩は危急存亡のときを迎え、時代は急旋回を始めることになる。

🔘園芸サークルが庭の畑で育てているトマト