厚狭毛利家代官所日記⑪嘉永4年(1851)②菜種油事件

厚狭毛利家給領地内の民政に関わる嘉永4年の日記、菜種油事件について現代文に直す。
またこの事件の前置きとして8月26日のブログに背景を書いている。

10月28日
梶浦の熊吉(熊太郎)と申すものが他国の種子(菜種)を取り扱ったとのことで津留打ち廻り中(港で物資などを見廻りする役目、ここでは下津港と思われる)より杉山弥兵衛(庄屋)まで申し出があり本人の口述書の提出が有ったと届けられた。
併せて吉田宰判大庄屋まで持参届けの取り計らいの依頼があった。

口述書の写し控え

私儀、菜種油取り扱いに関し不審があり、行きがかりをありのままにせよとのことで申し述べます。
かねてから肥やしその他が入り船の折には問屋として売り捌きをしていました。

24日、下関の権太郎と申すものが筑後(福岡県)の菜種6斗入り20俵を積んで来て、買って呉れるように頼んで来ました。
かねてからの御法に気付かず埴生浦の油屋・麻屋武兵衛と相談して値を決め~~~
世話料を引いた代金を権太郎へ渡しました。

この時武兵衛は居らず手代清三郎と申すものにこの経緯を説明したところ、菜種の他国売買は厳重に差し止めとのことで、気付かなかったとはいえ御法を心得ずみだりに売り捌き世話したこと不束で申し開きできない誤りであったことを申し上げます。

吉田宰判小都合庄屋杉山弥兵衛存内 (そんない・庄屋が管轄する村の内)給庄屋 平九郎組
熊吉(熊太郎)
☆〈萩藩の場合、厚狭毛利家領内のように家臣に与えた給領地では庄屋の事を小都合(こつごう)庄屋、その下の畔頭(くろかしら)の事を給(きゅう)庄屋と呼んだ〉

吉田宰判へ杉山弥兵衛より届け出たところ宰判の算用方より手子(てこ・助手役)2名が梶浦へ詮議の為に出張された。

11月1日、2日
梶浦 熊太郎の件についての厚狭毛利家代官・井上勇から萩藩吉田宰判代官・池田謙治宛て書状
百姓熊太郎
この者は兼がね心得の筋が宜しくないとの聞き込みがありましたが、過る24日下関権太郎と申すもの筑後菜種6斗入り20俵~~~
菜種他国売買はかねてから御法もあるところ、重々不束で不届き千万であり、よってこの先、ご指示通り張紙閉戸の沙汰致しました。

11月19日

井上勇から池田謙治宛て書状
百姓熊太郎

菜種の件について先に閉戸を申し付けられていましたが格別の御了簡で張紙を取り除き平常を仰せ付けられました。
尤も他出差し止め(他所へ出かける事を禁じる)はそのままにしておく。
以上の通り沙汰しております。
(約20日間の閉戸処分だが、今まで散見された閉戸のなかでは長い方と云える)

嘉永4年は米国ペリー提督の来航の2年前になるが、8月26日のこのブログに書いた菜種油に対する幕府の統制や、萩藩の専売制が浸透していることをうかがわせる記述になっている。
この時点では未だ幕府の権威に揺らぎは無いのだろう。

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