厚狭毛利家代官所日記㉚文久3年(1863)②身分制度の壁

幕末文久3年の長州藩と云えば、6月に高杉晋作が百姓町人も入れた奇兵隊を結成した年であり、如何にも身分制度が崩れかけているようにも見えるが、実際には激動の中でも厳然と身分制度が存在していた事を示す事例が、厚狭毛利家領内の民政記録・代官所日記に記されている。

2月24日の代官所日記(現代文に直す)

野原新二郎が和田直衛(厚狭毛利家臣)へ非礼の物言いをしたとのことで、直衛より覚書を以て申し出た事について詮議を申し付けた処、
新二郎も来て書き付けを以て申し出たが、
新二郎の非礼の事は少なからずあり直衛の申し出に相違無く、依って次の通り咎めを仰せ付けらる事、

舟木村庄屋
野原新二郎

諸士に対し非礼の申し分をせしめ謂われなきこと、依ってこの先、張紙閉戸を仰せ付ける事

(張紙閉戸とは長州藩の刑罰の一つで罪状と閉戸の期間を書いた書き付けを門戸に貼り、道路に面する窓を閉ざし昼夜の謹慎と他人の出入りを禁ずる)

・上記の指示書が代官から下役の算用方に出され閉戸が実行された。
・この次第が藩の出先である舟木宰判代官所にも届けられた。
・野原新二郎の庄屋役は暫くの間隣村・逢坂村の庄屋が兼ねるように指示された。
・その後閉戸は7日間で赦されたが今後不心得無きようにきっと嗜むべしとの達しが示された。

🔘和田家を明治3年の「厚狭毛利家来給禄帳」から調べてみると中士とあり上士と下士の間の階層のようである。
一方野原新二郎は村の庄屋で村役人として百姓のトップに当たり、当然ながら経済力では分家(厚狭毛利家)の中士をはるかに超えていたと思われる。

詳細は分からないが非礼とされたのはあくまで言葉の使い方、物言いのようで、武士階級と百姓身分の間には経済力などとは別の超え難い差別が厳然と存在していたことが分かる。

この事を当事者はどう受けとめていたのだろうか、非常に興味がある。
現在の「言論の自由」と云ったものはこのような歴史の上に成り立っていることを再認識させられる。

🔘施設のライブラリーに私の自費出版本「厚狭吉亭日乗」を置いて貰う事になった。