厚狭毛利家代官所日記㊲元治元年(1864)②当主の諸隊追討総奉行就任

厚狭毛利家当主・毛利能登は8月7日のブログの通り元治元年9月長州藩俗論派政府の家老職に就いたが、折から第一次長州征伐で幕府軍が国境(くにざかい)に迫っており、能登は岩国分家の当主・吉川監物(きっかわけんもつ)等と協力して幕府側と折衝に当たるなど奔走する。

この為、この頃の代官所日記には費用や人員を捻出するための記事が頻繁に出てくる、要約すると以下の通りであり領内に重い負担がかかっていることがわかる。
・急場の御用金として民間から借り上げ
足軽、中間、農兵の待機と出役
・費用捻出のためお預り山の入札、樹木伐採売却

毛利能登は幕府側との応接も担当していたようで、
代官所日記11月16日の記録
「御目付(幕府軍)御下向に付きお迎えとして報せあり次第、旦那様(毛利能登)お国境までお出かけになるので、陸尺(ろくしゃく・かごかき)6人、中間(ちゅうげん・雑務係)16人を明日17日山口までいつでも出せるよう沙汰しておくこと」

ところが事態は急変する、高杉晋作等の挙兵で奇兵隊や諸隊が萩へ進軍する状況で俗論派政府側も大慌てで態勢を整える。
代官所日記11月17日の記録
「旦那様お国境へお迎え役は除かれ、諸隊追討の総奉行を仰せつけられたと知らせがあった。かねて沙汰した陸尺中間の件は延引とする」

「旦那様先鋒隊総奉行を仰せ付けられたことについて、人数、武器等早々に繰り出すようにと、早打ち騎馬にて粟谷鶉蔵(厚狭毛利家臣)今夜九つ時(午前0時)罷り帰った」
(先鋒隊とは志願者で構成される奇兵隊など諸隊に対抗して、正規藩士で構成する隊である)

代官所日記11月19日の記録
「農兵15人を上、下厚狭にて20日着で萩まで罷り出るよう沙汰したところ上厚狭(船木地域)農兵は残らず体調不良で断りを申し出た。下厚狭(郡、下津)では2人が請け出たので中間8人を差し出すように指示した。
上厚狭についても(代わりに)中間8名を明日着で罷り出るよう指示した」

🔘毛利能登はこのとき53歳、門閥の一門家として毛利家の現状維持を図る考えが強く軽挙を避ける俗論派志向であり、この危急の際に俗論派政府から多大な責任を負わされることになる。
しかし領内地下(じげ・村々)にあってはそれを忌避するような動きがあり、下関での外国船砲撃以来続く負担の影響が随処に垣間見得る。

🔘厚狭毛利家の中間(雑務係)は足軽の下で、常雇いではなく日雇いで給金を支払っていたようである。

🔘朝いつも歩く健康公園の花壇のひとつ。